圓太郎の『富久』の基盤は古今亭の流れ。「椙森の千両富」の富くじを買う久蔵の長屋は「浅草三間町」、出入りを許されるのが「日本橋石町の旦那」というのは志ん生演出をアレンジした十代目馬生と同じだ(志ん生は「久保町の旦那」)。ただし、富くじの番号は「鶴の八八八番」で、志ん生や馬生の「鶴の千五百番」ではない。旦那の家で酔いつぶれた久蔵が「浅草三間町が火事だ」と起こされて番頭と共に出かけた後、久蔵の行動を描写せずに旦那の「帰ってきた? どうした、久蔵」という一言で瞬時に場面転換するのも独特だ。
千両当たったのに一文ももらえないと言われて絶望する久蔵の描写は真に迫る。札を売った丸屋の旦那に「こんなに運のない男は初めて見た」と言われ「冗談じゃねぇ、俺は死ぬぞ!」と吐き捨てる久蔵はあまりに哀れだ。それだけに直後の大逆転がもたらすカタルシスは大きい。メリハリのある演出で浮き沈みの激しい久蔵の喜怒哀楽を見事に描いた『富久』、聴き応えがある逸品だ。
今年56歳。圓太郎は今、円熟の境地に達しつつあると確信した。
●ひろせ・かずお/1960年生まれ。東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接している。『現代落語の基礎知識』『噺家のはなし』『噺は生きている』など著書多数。
※週刊ポスト2019年1月1・4日号