思い返せば確かにそうだ。コンビニやスーパーに、ブレーキとアクセルを間違えて車で突っ込む高齢ドライバーのニュースは、一時期目にしない日はないというほどだったし、最近も逆走したり歩道を車で疾走する高齢ドライバーのニュースが相次いだ。ネット掲示板でも「迷惑老人」をネタにしたスレッドは大いに盛り上がり、伸び続ける。
筆者も、通勤通学客で溢れかえる早朝の電車内で、登山ルックに身を包んだ5~6名の高齢客が、4名ずつ、計8名が座れるボックス席に荷物を置いて陣取り、間にいる別の客におかまいなしに大声で喋りまくり、挙げ句の果てには酒盛りまではじめるという光景をついこの間、目撃したところである。見かねた中年女性が高齢客をとがめようとすると、高齢客のうち一人が「敬老者に向けその態度はなんだ」と悪態をついてきた。
周囲の他の客は、見て見ぬふり。中年女性は居づらくなったのだろう、次の駅で逃げ出すように車両を降りた。その後も「若者がダメ論」を振りかざしながら、酒盛りに興じる高齢者たちを見て、腹が立たないわけがない。とはいえ、面と向かっては言えず、ただ睨みつけるのみで、憎さだけが湧き上がるのだった。
一方で、同じように混雑した車両内で、腰の丸まった高齢夫婦が周囲のサラリーマン客に押しつぶされそうになりながら手を繋ぎ、声にならないような悲鳴をあげているところを目撃したこともあった。夫婦がどんな用事で電車に乗っていたのかは定かではないが、その時、周囲からは舌打ちが相次ぎ、しまいには「こんな時間に乗るなよ」という声すら聞こえた。
車に乗れば危ないから免許を返せ、危険だから運転するなと言われ、酒を飲み面白おかしく過ごしていれば白い目で見られ、普通に過ごしていても邪魔者扱いされる。もちろん、筆者が見た事例では高齢者の側に非があることも多々あったが、高齢者を敵視するかのような日本社会そのものが、彼らにとって生きづらくなっているのは間違いないだろう。
もちろん、どんな世代にも迷惑な人はいる。年齢別人口でもっとも人数が多いのが第一次ベビーブーマー(1947~1949年生まれ)であるため、同じ割合で傍若無人な人がいるのに母数が多いぶん、目立っている可能性もある。世代でくくるのは簡単だし反響も得やすいが、「けしからん」以外の建設的な取り上げ方をそろそろ考える時期になっているのではないだろうかと思う。
人間ならば、誰でもかつては赤ん坊や子供だったし、いつかは老人になる。年老いた人の身勝手な振る舞いに腹を立てていた自分が、未来にはワガママすぎる老人の仲間入りをしているかもしれない。勝手な言い分かもしれないが、それでも自分が年老いたとき、高齢者がおだやかに生きるのを拒むような社会にはなっていてほしくない。だが、もし高齢だというだけで息苦しい世の中に将来なってしまうのだとしたら、その世界を作っているのは他ならない、現代を生きる我々ではないのか。
今を生き、今の暮らしのために誰かを叩いて、なんとなく溜飲を下げて過ごすことは簡単だろう。しかし、本当にそれが正しいのか、各々の不幸が最小化される世界を招く最良の方法なのか。そう考えれば、今日世間で”迷惑老人”として叩かれ、ネタにされる高齢者について、今一度考えを改めてみたいと強く思うのだ。