行動力のある女性は、「変わっている」存在だった
議員は一期で終わったが、日本初の女性議員の勲章は褪せることがない。きよ子さんが生まれたのは、1919(大正8)年。第一次世界大戦が終わった翌年だ。誕生からわずか半年後に、きよ子さんの父親が肺炎で亡くなってしまう。
長屋を持っていた父親は、住人が困っているのをみると、自分の家も顧みず助けたという。肌着がなくて震えている子供をみれば、わが子の肌着をあげた。母親は、夫を亡くしてからも、お金を工面しては、身寄りのない子供たちを引き取って育てた。多いときには10人の子を預かっていた。
人助けが当たり前の両親の血をひくきよ子さんは、子供の頃から曲がったことが大嫌いな性分で、いじめられている子をみれば、いじめっ子のところに押しかけていって「謝れ!」とけんかを売りに行ったことさえあるという。
女学校を経て保険外交員になったきよ子さんは、持ち前の行動力と母の助けになりたい一心で売り上げ1位を収めたが、当の母からは、きよ子は性別を間違えて産んでしまったかもしれないと言われることがよくあったそうだ。この当時、行動力のある女性は、「変わっている」存在だったのだ。
やがて兄の紹介で知り合った東大卒のエリートサラリーマンと大恋愛の末結婚するも、残してきた母やきょうだいが心配になり、夫の家族に土下座して離婚。その後、戦争が終わるまで、アパート経営で家族を支えながら糊口をしのぐことになる。
《敗戦のショックに打ちひしがれる男性を横目に、私は命が助かったこと、死ななかったことに歓びを感じ、解放感で大声を上げたい衝動に耐えて、全身がガタガタ震えた》
戦後の混乱の中、前を向いたのは、きよ子さんたち女性だったのだ。そして総選挙への立候補、当選と続く。野に下ってからも、日照権や建築公害に関する住民運動をするなど社会とかかわり続け、解決した件数は、300件以上にのぼる。
2005(平成17)年、86才になっていたきよ子さんは、新たな社会運動を始める。ホームレスへの毛布の配布だ。
《屋根の無い武庫川土手で暮らすホームレスの人達や、大阪の釜ケ崎の路上生活者に、肌着や毛布等を届けるという、ささやかな活動を続けている。冬の武庫川の河原を歩き、一人一人と言葉を交わしながら毛布を手渡していく。たった一枚の毛布に「有り難う」と涙ぐみ喜んでくれる人が、今時、どの世界にいるだろうか。逆に私自身が、この人たちから生きる支えをもらっているのである》
きよ子さんは亡くなるまで、自らの味わった苦楽のすべてを生かして、人のために生きた。
※女性セブン2021年1月28日号