実のところ、彼もまた、昔はセクハラの常習犯だった。失礼を承知で「あなたもでしょ」と一か八か切り出してみたが、「うーん、僕も役得はあったね」と告白してくれた。20年前の話、実名さえ出さなければ書いても構わないというので書くが、
「まあ、ほとんどの業界関係者は大なり小なりやってましたから、特定できませんしね」
という彼の言葉は真理である。時代もあるが、それほどまでに日本全体で当たり前だった。
やはりセクハラは間違っている
こうした行為は1990年代、2000年代初頭の日本では当たり前のように繰り返されてきた。1997年の男女雇用機会均等法改正による女性に対するセクハラ規定までは、女子社員のお尻を叱咤の意味で軽く叩いたり、慰労と称して肩を揉んだり、飲み会で新人女性の肩を抱く上司というのは普通にいた。それでもセクハラ裁判が頻発したため2007年には改正男女雇用機会均等法によりさらに厳しく定義された。「一般職の女の子のお尻にタッチする愉快な上司」というキャラクターもテレビや漫画の世界から消えた。こうして社会はアップデートされていく。しかし河村市長のようにアップデートできない老人が普通にいる。
冒頭の若手女性声優は二人とも活動はしているが、大きな仕事の表舞台からは消えている。そうなった理由はこれと関係ないかもしれない。それでも、声を出せなかった彼女たちを思うと、その裏にいる大勢のセクハラの被害者のことを思うと、河村市長やその支持者からすればしつこい話と思われるかもしれないが、やはりセクハラは間違っている。そうした旧来の過ちは否定しなければならないし、公人がおおっぴらにやらかすのは論外である。
もう上位者によるむやみな若年女性に対するボディタッチはやめにしないか。それは親しみでもなんでもない。相互同意でお付き合いしている仲ならともかく、そうでない男性から抱きつかれるのは恐怖でしかないだろう。怖くなくとも、大半は嫌だ。声を上げられないだけである。もちろん男性だけではなく、女性だって上位者として若い男性の嫌がる行為をしてはならない。もうそんな時代ではないし、そうした時代が間違いだったのだ。
コンプライアンスの厳しくなる昨今、相手に対するリスペクトなき行為の繰り返しは最終的に自分自身を追い詰める。しかしそれは河村市長だけではない。ミュージシャンによるいじめ自慢の件しかり、プロ野球選手による差別的いじりと暴力しかり、これまで多くの人が傷つき、ゆえに望んだ現代の社会規範をいまだに蔑ろにしてアップデートする気のなかった人間の末路である。
それにしたって、どれもこれも、名古屋市長という立場でやることじゃないだろう。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社を経てフリーランス。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞(評論部門)受賞。『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社・共著)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。近著『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太から愛された魂の俳人』(コールサック社)。