繰り返すが、日本以外の国々ではそもそも南朝が正統ではないか、という議論すら起こらないのである。南朝いや後南朝の子孫が大正時代にまだ続いていて正統性を主張していたというならともかく、そんなことはまったく無いのだから議論になりようがないはずなのだ。ところが、(引用しておいてケチをつけるようで誠に恐縮なのだが)こうした「見事な説明」を読むと、なんとなく「わかったつもり」になってしまう。
たしかに、日本史の論述式試験問題に「南北朝正閏論」とはなにか簡潔に述べよ、という問題が出たとして答案にこの内容を述べれば、それで百点満点だろう。しかし、この『逆説の日本史』がめざすのはその「百点満点」を超えたところにある、歴史の真理なのだ。
では、改めて考えてみよう。なぜ日本人は、滅んでしまった南朝をそんなに意識するのか?
この問題を考える大きなヒントになるのは、中世の軍記物『太平記』である。これを『逆説の日本史』で詳しく分析したのは第七巻「中世王権編」で、いまから二十年以上前のことだが、古くからの愛読者はともかく私の分析に触れたことの無い読者も多数おられるだろう。そこで念のため再説すると、私の「太平記論」のもっとも重要な論点は、前半と後半で作者が違い、その思想もまったく違うということだ。
前半は主役の後醍醐天皇も「信者」だった朱子学思想に貫かれており、後醍醐は本人の自覚とは裏腹に「徳の無い君主」であったため忠臣の権化のような楠木正成がいくら奮闘努力してもその政権は維持できなかった、と断を下している。しかし後半は、無念の死を遂げた後醍醐も正成も怨霊として復活し世の平和を乱し続けている、という内容だ。そうした怨霊の類を信じないのが朱子学である。つまり、どう考えても、前半と後半の作者は違う。
では、なぜ後半の作者が前半の物語に怨霊復活の物語を付け加えたかと言えば、そうしなければ、つまり物語のなかで活躍させることによって怨霊鎮魂を果たさねば、いつまでたっても世は太平(平和)にならない、と考えたからだろう。平安時代の『源氏物語』も、他ならぬ源氏(賜姓源氏)を中央政界から追放することに成功した藤原氏が紫式部に書かせた、「源氏が勝つ」物語である。鎌倉時代の『平家物語』も、怨霊鎮魂にはまったく無関心な武士に対して、貴族社会の頂点にいた天台座主慈円がプロデューサーとなって作らせた「平家讃歌」つまり怨霊鎮魂物語である。
こうした流れがあったればこそ、室町時代冒頭まずは外国思想の朱子学で書かれた「原・太平記」に対し、これでは怨霊鎮魂にならない、怨霊が縦横無尽に活躍する物語を書き足さねばならぬ、と考えた公家文化に属する人々がいたのだろう。
つまり、滅んでしまった南朝を「形の上では勝たせてやりたい」と考える人々がいたということだ。それが「太平記・後半」を生んだ。注意すべきは、こうした形での怨霊鎮魂をめざした人々には「できるだけ多くの人にこの物語に親しんでもらいたい」という意識があったことだ。多くの人が作品に接し内容を知れば、「鎮魂効果」も高くなる。
だが、近代以前の話だ。出版どころか印刷技術も無く、仮にそれがあったとしても多くの人は字が読めない。どうやって話を広めるか? 私の愛読者なら答えは御存じだろう。『平家物語』のプロデューサー慈円がやったように、「琵琶法師による語り物」にすればいい。これなら字の読めない人間でも楽しめる。慈円は天才だ。この方式が『太平記』にも受け継がれた。
音曲は伴わなかったが、多くの人々の前でそれを読む「太平記読み」という職業が成立した。江戸時代、これは講談に発展していく。そうした形で『太平記』は「大ベストセラー」になり、「南朝びいき」の人々が生まれた。しかし、いくらそうだからといっていきなり南朝復権にはならない。現実に存在する天皇家が北朝であると宣言しているからだ。では、この壁を南朝復権論者はどのように乗り越えたのか? 突破口となったのは、楠木正成であった。