そこで試みに「裏取り」をしてみると、この洞窟は、著者が書いた通りの場所に実在する。のみならず、「雲南省のある洞窟」に絞って「5年をかけた」調査の結果、キクガシラコウモリすなわちgreater horseshoe batがSARSの自然宿主だとした中国人研究者の手になる学術論文も、その存在を確認できた。
ありがたいではないか。時間と手間を両方かけて専門論文まで渉猟してくれるのは、ひとえに読者を楽しませようとしてのこと。著者における旺盛なるサービス精神の発露なのであってみれば。
現実に材を取りつつ、「あったに違いない」、「あったとしてなんら怪しむに足りない」物語世界を描くのが、インテリジェンス小説の妙である。
その「薬効」は、読後になんだか世界の複雑さをたんまり読まされたという気にさせられることだ。ただのヒーローもの、勧善懲悪ものではこうはいかない。そんな読書体験がリアリティを持ち得るか否か、それはもっぱら、細部の書き込みの成否にかかる。
これなら自分も知っていると思えば、妙に得をした気になる。あまりにも魅力的なのに知らずにいたことを自覚したら、著者に一本取られたと思う。書き手も、読者相手にこれでもかと、そんなバトルをするつもりで細部を詰めているに違いない。316ページに出てくるニューヨーク・マンハッタンの「ライブラリー・ホテル」などがよい例だ。
ホテルのウェブサイト(実在するのだから)を見ると、著者がいう「天文学」という名がつきその方面の本をたくさん所蔵している部屋は、5階の6号室なのだとわかった。6000冊を図書館分類法に従って並べてあるというそんなホテル、いかにも魅力的である。なんでジブンは知らなかったんだ、悔しいじゃないかと内心で呟いたら、そのとき読者は著者の掌中でもてあそばれている。
ちなみに1泊300~500ドルと、わりかた良心的な価格設定だ。機会があるなら行かなくては。
それはそうと、おなじみスティーブンを育てた伝説の乳母、日本人女性のサキさんに、もう一人の主人公、アメリカ人インテリジェンス・オフィサーのマイケルが和食を習いに行くくだり。手嶋さん、料理、できなきゃ嘘でしょう。もしまんいち、このとおりできないのに、こう出汁の香りも立ち上るかのように書かれたんじゃズルいですよと、著者の手際にちょっと悪態もつきたくなる。
巻を閉じるとき、読者に愉楽の一瞬は訪れない。新千年紀が始まってこのかた世界を振り回してきたバイオテロには確かな伏流があり、流れは米中を背後で結ぶループホールに染み渡りもすれば、消えてもまた出てくる類、おそらくは永遠の憂鬱をもたらすであろうと、苦味とともに納得せざるを得ないからだ。
【評者プロフィール】
谷口智彦(たにぐち・ともひこ)/慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授、著書に『安倍総理のスピーチ』(文春新書2022年9月刊)ほか。