辞書を引きながら綴った日々の思い
演じること、描くことと並んでもう一つ、吉右衛門さんが取り組んできたのが、文章を書くこと。平成2年から開始した「本の窓」の連載では芝居のこと、幼い日のこと、家族のこと、そして長引くコロナ禍で見つめ直したことなどを綴っていた。
「文章を書くことは嫌いではなかったようです。昔は芝居の脚本を手がけるためにパソコンに挑戦しかけたこともありましたが、もっぱら紙にペンで。作家の方が原稿用紙を誂える満寿屋さんに名入りのものをオーダーしたこともありました。原稿は時間をかまわず、アイデアが浮かぶと書いておりました。書く時は手元に辞書をおいて文字や正しい意味をきちんと調べており、そういう意味ではきっちりしていたのかもしれません。小さな文字を読むのが億劫になってからは、もっぱら電子辞書がたより。毎年お弟子さんたちが誕生日にお祝いをしてくれるのですが、何年かに一度は電子辞書の新しいものを、とリクエストしてバージョンアップしておりました」と、知佐さん。
自宅のカレンダー裏には、連載していた「本の窓」の随筆の下書きがびっしりと書き込まれている。
「このカレンダーはベッドサイドに置いて目薬をさすタイミングなどを記したものだったのですが、気づくとその裏に色々と書き込んでいたようです。あくまでも下書きで、本人はどなたかのお目に触れるとは思わずに書いたものでしたので、ご披露して良いものか悩みましたが、編集の方のおすすめで公開することにいたしました」
令和3年3月の歌舞伎座公演に出演中、千穐楽を翌日に控えた前夜に入院、闘病生活を重ね、11月28日に世を去った吉右衛門さん。
「よく近しい人を亡くすと、胸にぽっかり穴が空いたようになると聞きますが、私はまだその実感がないまま日々を過ごしております。ただ先日新盆を迎えた時に、お仏壇にご飯を供えようと支度を始めた時に、久しぶりに主人のためにお米を研いでいるのだと気づいたら堪らない気持ちになってしまいました。秀山祭は主人が常々生きがいとし、何としてでも続けたい、と申していた公演です。ゆかりの方々によってゆかりの演目が上演されること、そしてお客様が主人を偲んで劇場にお運びくださることは、何よりも有難いことと感謝いたしております」
来たる9月4日から27日に歌舞伎座で行われる「秀山祭九月大歌舞伎」は、吉右衛門さんの一周忌追善となる。初代を顕彰し、その芸を次の世代へ伝えることを何よりも大切に考えていた吉右衛門さんの思いは、亡き後もきっと受け継がれていく。名優が演じてきた作品に触れ、在りし日の舞台姿を偲びたい。
『芸に命を懸けた名優 中村吉右衛門 舞台に生きる』
在りし日の舞台、『本の窓』連載をまとめた絶筆エッセイ、当たり演目の芸談、コロナ禍で描き続けた絵、逢坂剛寄稿「鬼平と吉右衛門」、吉右衛門夫人インタビュー、未完成絵本等収録。歌舞伎に人生を捧げた名優の集大成。
著:中村吉右衛門
2022年8月31日発売
定価4950 円税込
B5版 248P
小学館