1984年サラエボ五輪でフィギュアスケート女子シングル金メダリストとなったカタリナ・ヴィットの演技(EPA=時事)

1984年サラエボ五輪でフィギュアスケート女子シングル金メダリストとなったカタリナ・ヴィットの演技(EPA=時事)

 またアイスショーではそれまでの羽生結弦の歩みが映像とともに綴られた。もちろん東日本大震災の時の映像も。当時の被災地の状況も含め、勇気ある踏み込んだ映像内容だったように思う。そしてそれを悲しみ、苦悩し、ときに自問する羽生結弦の姿を正直に映し出した。かつて「被災地代表選手」という見方に罪悪感と疑問を持った青年が、「一人の人間として何ができるのか」に成長した過程を描いている。

 筆者は以前「記録の人」「記憶の人」「結果の人」が「伝説の人」となり、そこに「時代の人」という要素が加わると「歴史の人」になると書いた。すなわち歴史上の偉人ということになるが、羽生結弦もまさに多くの偉人と同様、「時代の人」(「時代の子」)に選ばれたがゆえに、「一人の人間として何ができるのか」にたどり着いた。

 かつてカタリナ・ヴィットというフィギュアスケーターがいた。彼女は旧ソ連(ロシア)の影響下にあった旧東ドイツに生まれ、共産主義独裁政権を率いたホーネッカーによる圧政の下、「共産主義の宣伝」として滑り続けた。そして後の羽生結弦と同じくサラエボ、カルガリーと二大会連続の金メダリストとなった。しかし彼女はホーネッカーから祖国英雄として大勲章まで送られたにも関わらず、1989年に自由を求めアメリカに亡命した。アメリカでのプロ転向後も彼女の確かな基礎と演技力、そして芸術性はアイスショー『氷上のカルメン』として昇華し、共演のブライアン・ボイタノ(カルガリー・金)、ブライアン・オーサー(サラエボ・銀、カルガリー・銀)とともにエミー賞を受賞した。

 そんなヴィットがあえて、1994年のリレハンメルオリンピックで競技者として復帰した。もう「どれだけ飛べるか」「どれだけ回れるか」の時代に入り、ヴィットがメダル争いで通用するはずもなく、彼女の時代に存在したコンパルソリー(かつて実施されていたスケートの規定・技術競技)も廃止されていた。2大会連続金メダリストの彼女が今さら出ることは「恥を晒す」とまで言われた。

 それでも彼女は出場した。東欧革命の余波によるユーゴスラビア紛争は民族浄化という大虐殺にまで及び、サラエボも廃墟となった。かつてのサラエボの花、ヴィットが「一人の人間として何ができるのか」を思ったとき、あのリレハンメルでのフリースケーティング『花はどこへ行った』が生まれた。スケートで「一人の人間として何ができるのか」のヴィットの答えとは、かつて暖かく迎えてくれた旧ユーゴスラビア、サラエボ市民や世界中のファンに対する思いと平和を、自分のスケートを通して伝えることだった。

 羽生結弦もそうだ。もう10年以上が経ち、コロナ禍もあって人々の記憶から震災は風化しようとしている。それでも羽生結弦は自分の大切な『プロローグ』に震災というメッセージ性を込めた。こうした表現を文学の一部では「社会性」と呼ぶが、羽生結弦のスケートには社会性がある。それは「時代の人」の宿命であり「歴史の人」になる必然である。今回のプロローグ、拙筆『初の単独アイスショー開催 氷上の芸術家・羽生結弦は「伝説の人」から「歴史の人」へ』でも書いた通り、まさしくその端緒となったと確信する。

関連キーワード

関連記事

トピックス

現役を引退した宇野昌磨、今年1月に現役引退した本田真凜(時事通信フォト)
《電撃引退のフィギュア宇野昌磨》本田真凜との結婚より優先した「2年後の人生設計」設立した個人事務所が定めた意外な方針
NEWSポストセブン
広末涼子と鳥羽シェフ
【幸せオーラ満開の姿】広末涼子、交際は順調 鳥羽周作シェフの誕生日に子供たちと庶民派中華でパーティー
女性セブン
世紀の婚約発表会見は東京プリンスホテルで行われた
山口百恵さんが結婚時に意見を求めた“思い出の神社”が売りに出されていた、コロナ禍で参拝客激減 アン・ルイスの紹介でキャンディーズも解散前に相談
女性セブン
歴史的快投を続けるカブスの今永昇太(写真/共同通信社)
【MLBで三振の山】カブス今永昇太、快進撃の秘密 内川聖一氏は「ストレートの回転数が多く、空振りを誘う」と分析
週刊ポスト
期待される2人の先行きが視界不良(左から大の里、二所ノ関親方)
【角界ホープ2力士に暗雲】尊富士は横綱・照ノ富士と宮城野親方の板挟み、大の里は師匠・二所ノ関親方の管理能力に不安要素
週刊ポスト
真美子夫人は「エリー・タハリ」のスーツを着用
大谷翔平、チャリティーイベントでのファッションが物議 オーバーサイズのスーツ着用で評価は散々、“ダサい”イメージ定着の危機
女性セブン
猛追するブチギレ男性店員を止める女性スタッフ
《逆カスハラ》「おい、表出ろ!」マクドナルド柏店のブチギレ男性店員はマネージャー「ヤバいのがいると言われていた」騒動の一部始終
NEWSポストセブン
殺人未遂の現行犯で逮捕された和久井学容疑者(51)。ストーカー規制法違反容疑の前科もあるという
《新宿タワマン刺殺事件》「助けて!」18階まで届いた女性の叫び声「カネ返せ、カネの問題だろ」無慈悲に刺し続けたストーカー男は愛車1500万円以上を売却していた
NEWSポストセブン
氷川きよしが独立
《真相スクープ》氷川きよしが事務所退所&活動再開 “独立金”3億円を払ってでも再出発したかった強い思い
女性セブン
殺害された宝島さん夫婦の長女内縁関係にある関根容疑者(時事通信フォト)
【むかつくっすよ】那須2遺体の首謀者・関根誠端容疑者 近隣ともトラブル「殴っておけば…」 長女内縁の夫が被害夫婦に近づいた理由
NEWSポストセブン
初となる「頂上鼎談」がついに実現!(右から江夏豊、田淵幸一、掛布雅之)
【江夏豊×田淵幸一×掛布雅之の初鼎談】ライバルたちが見た長嶋茂雄秘話「俺のミットを“カンニング”するんだよ」「バッターボックスから出てるんだよ」
週刊ポスト
曙と真剣交際していたが婚約破棄になった相原勇
《曙さん訃報後ブログ更新が途絶えて》元婚約者・相原勇、沈黙の背景に「わたしの人生を生きる」7年前の“電撃和解”
NEWSポストセブン