又吉氏「実はわかってなかった」という発見
前掲『孤独の俳句』の共著者で、人気お笑い芸人・作家の「ピース」又吉直樹氏も、そうした金子氏の考え方に共感するという。
せきしろ氏と共著で3冊の句集を出しているほか、オフィシャルコミュニティ「月と散文」で自由律俳句の発表を続けている俳人でもある又吉氏が、句に対する感じ方が変化していった例の一つとして同書で挙げているのが次の句だ。
「足のうら洗へば白くなる」 放哉
「放哉が小豆島に渡ったばかりのときに作ったこの句がすごいなと思うのは、わかっていたはずのことを言われているのに、実はわかってなかったんだみたいなところですよね。足の裏を洗ったら白くなるっていうことを際立たせたところで、なんにもならないって勝手に思っていたけど、俳句にされると、『まあ、そりゃそうやろう』と思うと同時に、『そりゃそうやろ』と思っている自分が知ったかぶりをしてるというか、ちょっとセコく思えてくる(笑)。『コロンブスの卵』じゃないですけど、それを最初に思いつくのと、それを見て真似するのとでは雲泥の違いがあるんですよね。
放哉がこの句を詠んだのも、移り住む庵を探してくれている小豆島の住人からの返事を待たずに島へ押しかけて行ったときに、庵がまだ見つからないと聞かされて失望すると同時に独断で出向いてきた自分の行為が恥ずかしかった──というような背景を知ると、句に対する感じ方が深まる。いったいどういう気持ちで詠んだんだろうと、いろいろと想像力がかき立てられるんですよね」
又吉氏はその上で、自由律俳句の味わい方についてこう提案する。
「はじめて自由律俳句に触れる方に伝えたいのは、鑑賞眼というのは人によって違うし、どのように受け取ってもいいんだということですね。1回目は、ただその俳句の言葉を真っ直ぐに受け取って、状況を想像して、笑いながら読んでもいいんじゃないかなと思うんです。人生経験を積んだり、知見を深めたりしていくうちに感じ方が変わってくると思うんですよ。僕も読むたびに、感覚が変わってきましたし。
自由律俳句には、読み直していくうちに見えてくるものが変わるという楽しさがある。みんな自由に鑑賞するのが一番いいと思うし、時間をおいて何度か読み直してみるといいと思いますね」
1句で二度も三度も楽しめる……。自分が面白いと思った俳句の句集を書店で一度手に取ってみてはいかがだろうか。その日から、世界が少し違って見えるかもしれない。
※参考文献/金子兜太・又吉直樹『孤独の俳句 「山頭火と放哉」名句110選』(小学館新書)、村上護監修・校訂『定本山頭火全集』(春陽堂書店)、村上護編『尾崎放哉全句集』(ちくま文庫)