利発だった「Eiko」は著名人に
「Eiko」こそ東京代表の少女の名前である。「是非ウチにいらっしゃい」と言われて実際遊びに行くつもりだった。住所も聞いていたが、約束がはたされることはなかった。夏休みが終わると、高校受験に忙しくそれどころではなくなった。住所を書いていたメモも散逸し、彼女の存在も忘却の彼方に消えていった。ままよくある話である。
しかし、田中敬子は「Eiko」と思いがけない再会をはたす。1980年頃の話である。
たまたま、自宅でワイドショーを見ていたら、コメンテーターの女性が喋っていた。話す内容が頭に入ってきたわけでもなければ、取り立てて印象に残ったわけでもない。ただ、テレビに映る女性の表情を見て「この人、どこかで会ったような……」と思った。
このときワイドショーで話していたコメンテーターこそ、1956年の「青少年赤十字世界大会」で出会った「Eiko」だった。ネームスーパーには「大宅映子」と映し出されていた。
「大宅映子さんと会ったのは、結局その青少年赤十字のときだけ。二度と会わなかったんだけど、でも、凄いでしょう。今も時々テレビにお出になったり、政府の諮問委員みたいなことをやったりご活躍よね」
評論家、ジャーナリストの草分けの一人である大宅壮一の三女であり、大学時代から音楽ライターとして活動を始め、大学卒業後は就職、結婚、出産を経て、1978年から政府審議会委員をつとめ、80年代からはテレビ番組のコメンテーターとしても活躍していた。
筆者が「大宅映子は国際基督教大学に進学していますね」と水を向けると「有言実行よね。でも、映子さんの才能っていうか、オーラはこのときすでにあったわね」と言った。
ともあれ、漠然と「外交官になりたい」と思っていた田中敬子の将来は、都立駒場高1年生の大宅映子によって、国際基督教大学という具体的な進路とともに定まったのである。
(文中敬称略。以下次回、毎週金曜日配信予定)