年寄株を手に入れる難しさ
2014年の公益法人化の際、3年の猶予期間を設けた上で年寄株の貸し借りは禁止されたが、現実は豊ノ島のように借り株で協会に残る親方は少なからずいる。借り株でつなぎなら年寄株の取得に至るケースもあれば、借り株を渡り歩いて長く相撲協会に残るケースもある。ベテラン記者が言う。
「引退後、借り株を渡り歩いて年寄株の取得に苦労したことで知られているのが、1957年に引退した元前頭の大昇だ。借り株で『押尾川』を襲名したが、3年後に時津山(元関脇)の引退で『武隈』に変更。さらに1年後、北の洋(元関脇)の引退で『北陣』となった。4か月後に福ノ海(元前頭)が引退したことで『関ノ戸』に乗り換え、さらに吉井山(元前頭)が引退したことで『千賀ノ浦』となった。そして大関・栃光の引退により『浦風』となり、6年間を過ごした。ここまですべてが借り株だったが、先代の春日山親方(元大関・名寄岩)が亡くなったことで春日山部屋を継承。7回目でようやく自分の年寄株を取得し、定年まで『春日山』として後進の指導をした。
1983年に引退した二子山部屋の元小結・若獅子は『鳴戸』→『峰崎』→『荒汐』→『小野川』→『千賀ノ浦』→『湊川』→『花籠』→『竹縄』→『芝田山』→『藤島』→『佐ノ山』と11の借り株を渡り歩いたが、最後まで年寄株を手に入れられず48歳で廃業した」
豊ノ島は借り株を渡り歩くようなかたちにはならず、タレントへと転身した。「すぐに空き株がなかったうえ、しゃべりに自信があったということで転身を決意したのではないか」(若手親方)とみられている。ただ、国技館を訪れたファンがポスターへ送る目線からは、豊ノ島が有望な親方であったことが窺える。1月16日発売の本誌・週刊ポストでは豊ノ島のまさかの廃業の内幕を詳報しているが、相撲協会は年寄株不足に起因した人材流出に歯止めをかけられるのか。