1923年、イリノイ州エヴァンストン生まれのチャールトン・ヘストンは、『十戒』(1956年)『黒い罠』(1958年)『エル・シド』(1961年)で主演をつとめ、1959年公開『ベン・ハー』ではアカデミー賞主演男優賞を受賞した正真正銘の大スターである。50年代に萌芽した人種差別撤廃の公民権運動にも積極的にコミットし、1963年8月28日のワシントン大行進にはハリー・べラフォンテやマーロン・ブランドとともに参加するなど社会運動家としての側面も持っていた。
「普通そんなもの来るとは思わないでしょう。はるばる海を越えてアメリカから、それもハリウッドのスターが送ってくれたと思うと信じられなかった」(田中敬子)
「将来の夫」の友人だった裕次郎との対面
では、邦画にまったく見向きしなくなったかと言うとそうでもない。例外がいた。石原裕次郎である。
前年5月に『太陽の季節』が、7月に『狂った果実』が公開されると「中学生があんな映画を観に行ったらダメ」と学校から釘を刺された。「行くな」と言われたら行きたくなるもので、雑誌に裕次郎が載ると欠かさず目を通した。日本人離れした長身と甘いマスクに、日本中の女子中高生が夢中になったが、敬子もその一人だった。
夏の前のことである。父の勝五郎が「今度、本牧の波止場で裕次郎の映画のロケをやることになった。所轄からも何人か出す」と言った。敬子が黙って聞いていると「俺も立ち会うから、お前を裕次郎に会わせてやれるかもしれない」と言うのである。
「もう驚いて驚いて。『作品を見るのは駄目だけど、ロケならいい』っていうのは理屈としてよくわからないんだけど、嬉しかった。それで、父と一緒に本牧の港湾を管理している人のところに行って、そこから一緒に撮影を見たんです」
休憩に入ると、主演の石原裕次郎と北原三枝の周囲を何人ものスタッフがまめまめしく動き始めた。程なくして、敬子も休憩中の石原裕次郎の前に通された。
「裕次郎さん、お休みのところすみません。こちら神奈川県警の田中警部の長女の敬子ちゃんです。裕次郎さんの大ファンで」
港湾の管理人がそう声をかけると、裕次郎は物静かな口調で「ああ、そうですか」と言った。