「大会が始まって、7、8年は正輝も前走として滑っていました。だけど、当然、歳も取って体力も落ちてくるのは当然のことで、ある日、正輝から『転倒してケガをすると仕事関係者に迷惑を掛けてしまうこともあるから、辞めておきます』と。それからはスキー板は履いているけど、以前のようにコースに出て滑ることはほとんどありませんでした」(同前)
26年間続いた大会は、なぜ終わってしまうのか。事務局担当者が理由を明かした。
「実は、私が身体を壊したので、これ以上大会を続けていくのは難しいということで今年の26回をもって終わりました。正輝とは『元気だったらお互いにもっとやりたかったね』という話はしました。突然の発表になってしまい、閉会式で今年が最後だと知った参加者は『なんで辞めるの』『どうして?』と、とても残念がっていました。正輝のおかげで長く続いた大会だと感謝しています」(同前)
長く芸能界に身を置き、多忙な日々を送る神田だったが、“第2の故郷”の長野では、慣れ親しんだ仲間との時間を楽しんでいた。
「正輝は日大芸術学部出身で、いつだったか大学の先輩が大会の手伝いにきていたときは学生時代の話で盛り上がって楽しそうでした。毎年来ているけど、自分の仕事の話はいっさいしない。昔からこっち(志賀高原)に来ているから、知り合いも多くて、会えば笑顔になっていました」
しかし、一度だけ開催の中止が検討された年があった。
「2021年12月に正輝の娘の沙也加さんが亡くなられたときに、『神田正輝カップ』の開催はとてもできないなと思っていました。大変な出来事でしたので、直接本人と話すことはできないままでいたら、事故直後の『朝だ!生です旅サラダ』で正輝が『ありがとうございます。僕は元気です』と、話して安心しました。その後、東京にいる正輝の知り合いから『大会やっていただいて大丈夫です』とOKが出たので、正輝は不在でしたが開催することができました」(同前)
不幸やコロナ禍もあり、ここ数年は神田不在が続いたが、最後となった大会の閉会式に自ら参加し、『神田正輝カップ』は終焉を迎えた。
「今は少し痩せてしまった正輝ですが、今年も大会で長野に来ているときも元気に体を動かしていましたし、具合が悪かったらスキーをしたり、テレビに出たりできないと思いますね。正輝はやさしい男で、『お互いに体を大切にしましょう』と、私のことを気遣ってくれました。内心はもっと大会を続けたかったのかもしれませんね」(同前)