だから山県も成案が出来た段階で加藤はもう一度相談に来るだろう、そのときに強硬な要求は絶対に削除すべきだと意見すればよい、と考えた。一方、加藤は決して「ウソをついた」のでは無く、その時点では本当に検討の余地があると考えていた。ただ、それ以上に「元老の口出しは排除する」という意識が強く、これ以後二度と山県の意見を聞くことは無かった。そして結果的に陸軍強硬派の強い意向で第五号が追加され、削除できずに袁世凱に突きつけることになってしまった。山県はおおいに不満だった。
〈山県は、二十一ヵ条要求問題が一応落着した後、原敬に次のように語っている。
若し果して陸軍の意思にて加藤の意にあらざるものならば、自分が異議を云ひたるに対し夫れは陸軍の案なりとて自分に慰撫を頼まざるべからざれども絶て其事なかりき。〉
(『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)
この著者によれば、この山県の述懐は『原敬日記』に記録されているようだ。この言葉わかりにくいが、要するに加藤もこの要求の中身について不本意であったならば、なぜ自分に陸軍を抑えるように頼まなかったのか、それについてまったくオファーが無かった、ということなのである。山県自身もそれを不審に思っていたということだ。奈良岡は、この山県の述懐の引用の直後に次のように述べている。
〈恐らく加藤にもこのことは分かっていたのではないだろうか。加藤は、「反元老」「外交一元化」という自らの政治的理想を曲げないため、いわば「やせ我慢」をして敢えて元老を頼らなかったように思われる。他方で山県は、自らの政治力を自覚しつつ、事あるごとに元老に楯突く加藤を、「お手並み拝見」とばかりに突き放し、陸軍内部の強硬論者を慰撫するという「火中の栗」を拾うような真似はしなかった。細部においてはともかく、要求内容をもっと絞り込むという点ではある程度一致していたはずの両者が、このように感情のすれ違いから共闘を拒んだ結果、「十七ヵ条要求」はこの後絞り込まれるどころか「二十一ヵ条要求」に膨れ上がることになる。〉
(引用前掲書)
なんともバカな話で、結局は陸軍強硬派の思いどおりになり、その結果大隈や加藤が思い描いていた英米の協調路線にもヒビが入ることになった。
では、どうすればよかったのか? 私は、加藤がこの場合は山県の力を借りて陸軍強硬派を抑えればよかったと思う。それは確かに元老を排除して外交を政党内閣の下で一元化するという信念に反するもので、頑固一徹の加藤には耐え難いものであったかもしれない。しかしここで日本の将来を考えるならば、英米との協調路線を進め陸軍強硬派の暴走を抑えるためにも、山県の出馬を乞うべきではなかったか。
言わば「毒を以て毒を制す」ということであり、それが政治というものだと私は考える。しかし、ここは意見の分かれるところだろう。現役のベテラン政治家に、「このとき加藤の立場だったら、あなたはどうする?」と聞いてみたいところだ。
(第1413回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年3月29日号