発言を切り取られ“不適切”の烙印を押されることを過剰に恐れる現代において、爆笑問題はテレビ、漫才、ラジオで時事問題に臆することなく斬り込んできた。時に炎上を経験しながらも、政治や社会問題を笑いに変えてきた太田光(58)と田中裕二(59)は今のコンプラ至上主義時代をどのように見つめるのか。聞き手は“テレビっ子”ライターのてれびのスキマ氏。【全3回の第1回】
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──昭和の価値観に光を当てて話題になったドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)はご覧になりましたか。
田中:2話までしか見てないけど、面白かったね。
太田:2話じゃわかんないだろ! 俺は最後まで見たけど、くだらなくて楽しかったね。ドラマ『VIVANT』(TBS系)の時の“伏線をいかに回収するかがすべて”みたいな考察ブームが、クドカン(脚本家の宮藤官九郎)はウザかったんだと思う。
──最近は、作品を引いた目線で分析して語ることを良しとする風潮が強いのかもしれません。
太田:俺たちの芽が出ていない時、ライブの打ち上げで「俺たちのやっている芸はテレビに出ているような連中と違うから」って語っているヤツが嫌で嫌で。若手の頃から、ずっとくだらない話をしていたいと思っていました。その意味では『ふてほど』はめちゃくちゃな展開で痛快だったね。
──爆笑問題さんがデビューしたのが1988年。その頃の芸能も“不適切”で溢れていました。
太田:社会や政治を笑いで風刺するのはチャップリンの時代からあるわけだし、デビューした当時もブラックジョークの“不適切”なお笑いはたくさんありましたよね。俺らがデビューする前には(劇作家の)宮沢章夫がいたラジカル・ガジベリビンバ・システムが活躍していたし、ツービートだって「寝る前に必ず締めよう親の首」とかやっていたわけ。タモリさんもかなりブラックな内容のネタLPを出していた。ドリフはPTAに猛抗議されていましたよね。
田中:僕も(ビート)たけしさんの影響をモロに受けていたので、建前をひっくり返して本音で言うことの痛快さが面白いと思っていましたから。
──爆笑問題さんもデビューした当時から、チェルノブイリ原発事故や中国残留孤児を扱ったネタをされていましたね。
田中:テレビじゃ流せないって当時の僕らも散々言われていました。その時はライブが多かったのですが。
太田:テレビって昔からがんじがらめのメディアだからね。ダメな言葉の線引きが変わっているだけで本質的にはほとんど変わっていないよ。きっと、どの時代もテレビは窮屈だってずっと言われ続けるんじゃないかな。
──爆笑問題さんは時代の流れの中でどのように生き残ってきたのでしょうか。
太田:我々がやりたい本質は「人間って他の人間をこう差別するよね」とか「綺麗事言っているけど、本当は嫌なのが表情に出ちゃうよね」ってこと。例えば「放射性物質」を茶化すことはできないけど、「道端のうんこ」は茶化すことができる。茶化すための言葉を時代によって変えているというだけなんだけどね。
(第2回に続く)
【プロフィール】
てれびのスキマ/1978年生まれ。ライター。テレビ番組に関する取材を行なう。戸部田誠の名義での著書に『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『タモリ学』(イースト・プレス)、『芸能界誕生』(新潮新書)など。
※週刊ポスト2024年4月26日号