【書評】『唯幻論大全 岸田精神分析40年の集大成』(岸田秀著/飛鳥新社/2940円・税込)
『ものぐさ精神分析』(1977年刊)等のベストセラーで知られる精神分析学者、心理学者の岸田秀は、自らの思想を〈唯幻論〉と呼ぶ。人間は一般の動物と違い、無力な胎児として生まれるため、自然環境の中で世界と密着して育つのではなく、人間関係(親子関係)という人工的な環境の中で育つ必要がある。
そのため、人間は人間が勝手に決めた根拠のない行動基準に従って行動せざるを得なくなり、本能が壊れてしまう。
そこで岸田は人間を〈すべての本能が壊れて、現実を見失い、幻想の世界に迷い込んだ動物〉であると規定し、その〈唯幻論〉に基づいて人間とこの世界のすべてを解釈してきた。
たとえばセックス。一般の動物は種族を保存するという性本能に従い、定期的に巡ってくる発情期にしかセックスをしない。それに対して人間は性本能が壊れ、幻想に基づいてセックスをする。だからこそ、人間は季節かまわず、種族保存と関係のないセックスをし、そのセックスには驚くべきバリエーションと倒錯が生まれた。さまざまな体位を発明し、強姦、売買春を行ない、フェティシズムが生まれ、不能症にも陥るのである。
本書は、岸田が40年の間に雑誌に発表した論文を集めて加筆修正し、書き下ろしの文章も一部加えて、それらを「自我論」「歴史論」「セックス論」の3部に分けて編集した大著だ。
岸田は戦後思想史の中で孤独にそびえ立つ山のような存在である。にもかかわらず、本書に収められた文章の多くは平明で、岸田の思想に馴染みのない読者にも理解しやすい。人間と世界の見え方が変わる“目から鱗”の体験をすることができるはずだ。
※SAPIO2013年6月号