『恋のバカンス』『君といつまでも』の作詞、『愛の賛歌』や『サン・トワ・マミー』の訳詞だけでなく、越路吹雪のマネージャーを長くつとめたことでも知られる岩谷時子氏が亡くなった。昭和の大詩人を知る関係者を訊ね、作家の山藤章一郎氏が帝国ホテルで過ごした晩年の岩谷氏について報告する。
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詩人は、ほぼ15年前から、帝国ホテルに住んでいた。本館の、廊下に出ずに部屋を行き来できるスイート。真ん中に応接室がある。「ホテル代稼がなくちゃ」。時に冗談をいい、「自宅だと書く気になれない」というスタイルに周囲はみな納得させられた。
最晩年は本館から、31階の新館インペリアルタワーへ。ここもリビングつきの部屋だった。元気なころは外に出たが、車椅子生活になってからは、3食をホテルで済ませた。
〈岩谷時子音楽文化振興財団〉草野浩二理事は笑う。
「ちょっとそばが食べたいといっても〈なだ万〉、5000円ですからね。コーヒーだって幾らですか。ドトールなら200円なのに。大田区の立派な一軒家は洋服や家財の置き場。昔の人で、しかもお歳だから戴きものなど捨てられない。デパートの包装紙のまま山になって積まれてまして」
10月25日死去。享年97。
大正5年、第一次世界大戦のさなかに生まれた。鴎外が『高瀬舟』、漱石が『明暗』を出した年である。遥か1世紀におよぶ一期だった。生涯独身。実子も養子もいない。大田区雪谷の家のことは長くお手伝いとして世話をしてきたSさんがすべて知っていた。
「あの服、あのバッグ」
言われて、帝国ホテルに届ける。最後まで詩人の、陰に日向に付き添った財団の草野氏は元・東芝のディレクターだった。以下、氏の回想。
「家では絶対に食べない。全部外食でした。一緒に暮らしていたお母様が存命のころは、料理はお母様。先生はつくらない。なんでも召しあがりました。とくに肉がお好きで。丈夫な歯が結構残っていましたから、80、90を越えても肉。しゃぶしゃぶにする薄い牛肉をさっと焼いて。
当時のヒット作のほとんどは、高輪プリンスや帝国ホテルで生まれたんです。どちらにも、先生用の部屋が用意されていまして。最後は帝国ホテルから出られませんでしたが、ご自分で歩けるころは、〈資生堂パーラー〉〈ウエスト銀座本店〉で打ち合わせをして。銀座がお好きだったんですね。で、夜に、ホテルに帰って書くんです」
深夜2時3時、集中して感覚が研ぎ澄まされてくる時刻を待った。その天啓の一瞬を詩人は「魔物が来た」と呼んでいた。起き出すのは午後。朝はまだ夢の中。
酒は飲めない。タバコも喫わない。恋愛経験いっさいなし。生涯を、連れ添い連れ添われた越路吹雪は、あたしの恋愛をパクる「恋泥棒」と岩谷を呼んだ。
越路はブラジルで、フランスの映画俳優に誘われた。「夜明けのコーヒー飲みませんか」OKした。朝、ホテルに行くと、男はひと晩中待っていた。そのエピソードが『恋の季節』のフレーズになった。
♪夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと あの人が云った
草野氏つづき。
「私には、作詞家の先生じゃなく、学校の女先生の感じでした。男同士で下ネタなんか話してる。そこに岩谷先生が通りかかる。パッと全員、口をつぐむ。そんな先生。でも、どんな仕事ぶりか見たことはありません。部屋に閉じこもり『できたわよ』と連絡がくる。ホテルのロビーで封筒を渡される。そこに、時代をつくる言葉が入ってる。あんなわくわくする瞬間はなかったです」
越路吹雪の死後、岩谷は、著作権など自分の資産はどうなるのかと思い始めた。音楽界に少しでも役立とう。〈財団〉はその趣意で4年前に設立された。まだCDも売れる時代だった。印税だけで数千万円の手取りがあった。それを基金とした。
今年2013年の受賞はユーミン。しかし車椅子の詩人に、帝国ホテルで授賞の挨拶をする力は残されていなかった。記念撮影にだけおさまり、部屋に戻った。
※週刊ポスト2013年11月29日号