手紙には独特の魅力がある。手書きの文字には人柄があらわれ、直接いえないことも伝わる。それでも、好きな人に思いをしたためるとなると、うまい言葉が出てこない。歴史に名を残した文豪、太宰治もそうだったのだろうか。
太宰治の愛人の一人、太田静子の実家は、かつては中津藩(現在の大分県中津市)で御殿医を務めた名門だった。没落後も気品を保ち続けた母との暮らしを綴った静子の日記をもとに、太宰は『斜陽』を執筆した。
昭和21年(1946年)1月11日、青森に滞在していた太宰が神奈川に住む静子に送った手紙を紹介する。
〈拝復 いつも思つてゐます。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思つてゐました。正直に言はうと思ひます。
おかあさんが無くなつたさうで、お苦しい事と存じます。
いま日本で、仕合せな人は、誰もありませんが、でも、もう少し、何かなつかしい事が無いものかしら。私は二度罹災といふものを体験しました。三鷹はバクダンで、私は首までうまりました。それから甲府へ行つたら、こんどは焼けました。
青森は寒くて、それに、何だかイヤに窮屈で、困つてゐます。恋愛でも仕様かと思つて、或る人を、ひそかに思つてゐたら、十日ばかり経つうちに、ちつとも恋ひしくなくなつて困りました。
旅行の出来ないのは、いちばん困ります。
僕はタバコを一萬円ちかく買つて、一文無しになりました。一ばんおいしいタバコを十個だけ、けふ、押入れの棚にかくしました。
一ばんいいひととして、ひつそり命がけで生きてゐて下さい
コヒシイ〉
前年に終戦を迎えたばかりで焼け野原となった中、母の死を悲しむ静子を気遣う太宰。作家で手紙文研究家の中川越氏が解説する。
「タバコを1万円近く買った、他の人と恋愛をしようと思ったがだめだった、など日常雑記のような文章を書いておきながら、最後に欄外に『コヒシイ』と添えた。まるでおまけのように一番伝えたい思いをしたためたところが印象的です」
※週刊ポスト2015年5月22日号