「あれは得難い体験でした。ポーランドのスーパーでは、卵の上にA、B、Cとシールが貼ってある。Aは輸出用でドルを稼ぐためだから、国民は食べられないとか…。ケーキ屋さんでも50人以上並んでいるので、聞くと、配給制度だっていうんです」
高田がヨーロッパ体験をしたのは、1970年代の初頭である。すでに日本は豊かになりつつあったが、東欧諸国はまだ貧しかった。
高田はハンガリー動乱やチェコのプラハの春をほぼ同時代に目撃しているのである。この時代、アメリカを体験した若者は数多いが、高田のように東欧諸国と直接商談した日本人はそう多くない。これが、高田の独特のパーソナリティーを生んだ。
ヨーロッパから帰国後、高田は一度平戸に戻り、妻と二人で佐世保に小さな写真館を出した。そこを起点に、記念写真撮影やカメラ販売など商いを広げていった。通販に乗り出すきっかけは、平成2(1990)年、地元長崎放送のラジオショッピングでコンパクトカメラなどを販売したことである。
同社がラジオショッピングを始めたときの売り上げは2億7000万円、それから20年後の2010年12月期の売り上げは1759億円に達した。ジャパネットたかたは20年足らずで長崎県初の1000億円企業を達成したことになる。
ジャパネットたかたが成功した最大の要因は、ダイエーが経営破綻するのを見越したかのように、仕様書を読む必要のない大量消費社会が終わりを告げ、商品の使い方を誰に聞いていいかわからない少子高齢化社会に移行することを見越していたからだろう。
※SAPIO2015年7月号