終戦3日後の8月18日、新聞に「物資買い取り」の広告が掲載された。戦前から新宿に根をおろし、露店商を統率してきた関東尾津組が、闇市を開くために行ったものだった。その後、隆盛を極めた闇市には、生きるために這い上がろうとする日本人たちの姿があった。ジャーナリスト・猪野健治氏がレポートする。
* * *
「光は新宿より」終戦からわずか5日後の昭和20年8月20日、新宿にオープンした「尾津マーケット(新宿マーケット)」が掲げたこのスローガンは、素晴らしいキャッチフレーズだった。
当時の新宿は空襲の爪痕もなまなましく、灯火一つなかった。しかし露店再開第一号の「尾津マーケット」をとりしきる関東尾津組の尾津喜之助親分が電灯をともし客を集めると、それに呼応するように闇市が全東京、全国に広まり、やがて戦後日本の復興というまぎれもない「光」を招きよせた。
尾津は終戦とともに仕事がなくなった軍需産業の下請け業者らを招き、日用品への転換を勧めた。軍刀の業者なら包丁を、鉄兜の業者なら鍋をという具合に。露店なら場所と品物さえあれば営業できる。その強みを活かして、復興の原点を築いたのだ。この新宿マーケットの出現を、当時の新聞は「闇吹っ飛ぶ声、新宿に明るい商店街」と好意的に報じた。
当時の東京露店商同業組合本部によると、昭和21年7月の総組合員数は5万9655人。そのうちテキヤ19.5%、素人露店商79.8%などで、素人の失業者が転身して露店商になったケースが多い。「日給20円で石炭を掘るよりも、闇市で日に1000円を得るほうが簡単だ」と転身するものも多かった。
品物が揃い市が立つと、あとは物を売りたい人、買いたい人が自然と集まるようになった。値段は、ご飯茶碗1円20銭、素焼き七輪4円30銭、下駄2円80銭、フライ鍋15円……ほか履き古しの軍靴から、学生がつくるカストリ雑誌までなんでも売られていた。裏では拳銃なども取引された。
また、闇市には組合に属さない中国、朝鮮、台湾の出身者も多くいた。日本政府の法統制を受けない彼らの露店には禁制品が豊富に並び、日本人業者を圧倒していた。
※SAPIO2015年10月号