「遣隋使」や「遣唐使」に見られるように、古代、日本は大陸へ人材を送ることで先進の文化を取り入れ、国家づくりを進めてきた。「中国皇帝」に対して「臣下」の礼をとる「朝貢外交」において、日本はしたたかな力を発揮してきたのだ。東京大学大学院教授・小島毅氏が指摘する。
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古代日本の「世界」とはすなわち東アジアである。そこでは、「天子」たる中国皇帝に周辺国の君主が「朝貢」(貢ぎ物を献上し、お返しに恩賜が与えられる)することで、国際秩序が成り立っていた。周辺国同士の関係は、それに付随する横の関係のようなもの。
日本が中国に臣下の礼をとった歴史は古く、1世紀半ばに倭国の王が後漢に朝貢し、光武帝より「漢委奴国王」印を授かった。卑弥呼や倭の五王による朝貢も中国の記録に残る。「日いづる所の天子」との書面を隋の皇帝に届けた聖徳太子(厩戸王)の遣隋使も、その後の遣唐使も、朝貢使節団だったことに変わりはない。
一方で、日本はただ貢ぎ物をしたのではなく、大陸に有能な人材を派遣して国づくりのハウツーや先進的な文化、学術を学んだ。儒教思想にもとづく律令制度や中国化した仏教が、日本に根付いていく。
中には中国で重用される人物もいた。奈良時代、遣唐使の大伴古麻呂は唐の玄宗皇帝との重要な謁見式で「わが国に貢ぎ物をする新羅が上席なのはおかしい」と訴え、玄宗皇帝がそれを認めて席次を変更させたという逸話がある(*)。これは、先に遣唐使留学生として大陸に渡り、玄宗の側近となっていた阿倍仲麻呂がいたから、認められたのではないかという解釈もある。
【*:8世紀に書かれた古事記や日本書紀には、日本が昔から新羅など朝鮮半島の諸国を従えていた(朝貢させていた)との記述がある】
現代風に言えば、米国に留学後、ホワイトハウスで大統領秘書官を務める日本人が、米政界でロビー活動を成功させたようなものだろうか。
※SAPIO2015年12月号