今後掲載される『ひねもすのたり日記』の原画
「20代の頃は、同世代の描き手はとても意識したよ。おもしろい作品を描かれると、うううって。俺はもうダメだ、って落ち込んだり。『あぶさん』や『ドカベン』の水島新司さんが出てきたときは、もう野球マンガは描けないと思った。この人にはかなわない、と」
逆に、ちばが嫉妬させたこともある。
「手塚治虫先生のスタッフをしていた方に聞いた話ですけど、手塚先生が『あしたのジョー』を読んだとき、『これのどこが面白いんだっ』と、パシッて『少年マガジン』を叩き付けたんだって。それを聞いたときは嬉しかったね」
年を重ねるにつれ、ライバルたちは戦友となった。水木の訃報に接したのは大学にいるときだった。
「電話で亡くなったと聞いたときは、膝が抜けた。しばらく声が出ませんでしたね……」
大学で触れ合う学生たちをはじめ、すべての若手マンガ家はちばにとって未来のマンガ界の大事な担い手である。
「新人作家の優れた作品を読むとすごく嬉しい。頼もしい才能が出てきたな、と。長く務めている新人マンガ賞の選考が、最近は目が辛いのでちょっときつい。でも、生き甲斐でもあります」
仕事場は自宅の屋根裏部屋だ。棚には、大相撲の録画などスポーツ関連のビデオテープがビッシリ詰まっていた。
「戦争に負け、満州国奉天で中国人に匿ってもらったとき、屋根裏で過ごした時期がある。そこで退屈しのぎに3人の弟たちに絵を描いてやったことがマンガ家としての原点。屋根裏だとはかどるのはそういう理由かもしれません。『あしたのジョー』も『のたり松太郎』も、ここで構想を練ったんですよ」
ペンを持ち、原稿と向き合うと、それまでの柔らかな空気が、一瞬にして張り詰める。カメラの存在など忘れてしまったかのようだ。
やはり、この人から、この手から、数々の名作が生まれたのだと思った。
取材・文■中村計 撮影■今津聡子
※週刊ポスト2016年3月4日号