津久井やまゆり園は、山に囲まれた住宅地にあり、重度の知的障害者や知的・身体の重複障害をもつ150人前後の人が入居していた。もし、町なかの開かれた施設で、一階にはカフェやパン屋があって、一緒にお茶が飲めるような空間があったら、このような事件は起こっただろうか。
施設介護というのは、どうしても一般の社会と分断され、見えにくい。バリアを取りのぞく必要がある。ノーマライゼーションやソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)の必要性が求められるなかで、今回の事件は、ぼくたちの社会が、障害をもつ人ももたない人も一緒に暮らせる社会ではない現実をあらためて認識させた。
ぼくは6年ほど前、ケニアのトゥルカナ湖に行ったことがある。この付近で、170万年前のホモエレクトスの女性の骨が出土している。通称トゥルカナ婦人と言われている。
その骨には、足に奇形があった。歩けなかったようだ。さらに、その骨を調べると、ビタミンA過剰症だとわかった。魚の臓物などを多く食べたことで、ビタミンAなどの栄養が過多になった可能性が高い。車いすもない時代、歩けない女性がなぜ栄養過多になっていたのだろう。
おそらく、障害のあるこの人は、コミュニティの一員として生きていたのではないか。少なくとも、周りの人が食事の世話をしていた。
人間は社会的な動物である。利己的なだけの集団は生き残るのに適さない。利己的でありつつ利他的な集団が、子どもを産み育てやすい社会をつくり、結果的に繁栄することができた。だから、ぼくたちが生き延びていくうえで、利他的に生きることはとても大切なことなのだ。
物理学者のアインシュタインは、「人間性について絶望してはいけません。なぜなら、私たちは人間なのですから」と語った。人間だから間違いもする。でも、人間らしく生きられるはずだ。
一人の男が起こした残虐な犯罪を乗り越えて、人々がつながりながら、障害があってもそれは個性なんだと言えるような寛容な社会を構築していく勇気をもちたいと思う。
●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に『「イスラム国」よ』『死を受けとめる練習』。
※週刊ポスト2016年10月7日号