戦後日本が復興の緒についたばかりの昭和30年代初め、「憎むな、殺すな、赦しましょう」のキャッチフレーズで登場した国産初のテレビヒーロー『月光仮面』(1958年)。それまでチャンネルを独占していた海外ドラマや時代劇のチャンバラヒーローを押しのけ、覆面にサングラス、マントをなびかせて颯爽とオートバイで疾走する姿は、日本中の子供を熱狂させた。当時を知るテレビプロデューサーの田村正蔵氏が語る。
「当時のキャメラは、予算の関係でニュース用のぜんまい仕掛けでしたから、15秒しか回せませんでした。『キャメラが止まる』『ぜんまいを巻く』の繰り返しで撮影していました」
『月光仮面』は、放送時間中に銭湯から子供がいなくなるほどの社会現象を巻き起こした。放送終了の翌年、『快傑ハリマオ』(1960年)が始まる。巨大な怪獣とも戦った月光仮面に対して、ハリマオは東南アジアを舞台に虐げられた人々を救うため権力者に立ち向かった。カンボジアでの海外ロケという異例の規模で収録し、三橋美智也の主題歌は大ヒットした。
月光仮面やハリマオに代表される等身大のヒーローの流れは、やがて宇宙から地球へとやってきて平和を守るスーパーヒーローへと変わっていった。その代表格が『ウルトラマン』(1966年)である。ウルトラマンのスーツアクター・古谷敏氏が当時を振り返る。
「細身で身長が高い役者を探していて、私に白羽の矢が立ったわけですが、メロドラマをやりたかった私にとって青天の霹靂。スーツの中で芝居をするなんて、イヤでイヤで仕方ありませんでした。それでも1回だけならと引き受けましたが、爆破シーンではスーツが猛烈に熱くなるし、水に落ちればスーツの中に水が溜まって溺れそうになる。辞めることばかり考えていました」
隣のスタジオでは、同期や後輩の俳優が「顔」を出して演じている。スーツの中で演技をしなければならないという苦悩から、1967年の『ウルトラセブン』出演後、しばらく俳優業から遠ざかっていた。
「その間、ウルトラマン人気が陰ることは少しもありませんでした。当時のファンがずっと、私が戻ってくるのを待ってくれていたのがとても嬉しかった。今は、年に数回海外で開催される世界中のヒーローが集うサイン会にも積極的に参加しているんですよ」(古谷氏)
■取材・文/小野雅彦
※週刊ポスト2017年2月24日号