これら現代芸術なるものは、しばしば「実験的」と表現される。この言葉は現代芸術の本質を言い当てている。今コロナワクチンの開発が急がれているが、いずれも実験段階であり、製品となったものはない。近い将来それが成功したとしても、その陰には廃棄物となった「実験作」が累々とある。これを製品として流通させるわけにはいかない。しかし、世の中には悪賢い奴がいて、これを横流ししたりして社会問題になる。この社会問題になること自体を目的とした愚行が現代芸術なのだ。現代芸術は難解だと言われるが、そんなことはない。ほら、こんなに分かりやすいじゃないの。
私は、硬直化し惰性に流されている芸術界がそれでいいと言っているわけではない。旧弊な芸術界に挑戦し排除された悲運の芸術家はいる。近年再発見された例では、奄美大島で没した田中一村やロウソクの絵で知られる高島野十郎だ。実は野十郎の『月』を私は既に一九六六年に見ている。しかも手に取って吸い込まれるように見ている。早稲田大学の川崎浹(とおる)先生の研究室でだ。川崎先生と野十郎の奇蹟のような交流は先生の『過激な隠遁』に詳しい。
この田中一村にしろ高島野十郎にしろ、作品そのものが感興を呼び起こす。一方、総じて現代芸術には、既存の芸術にケンカを売ってるんだぞというあさはかな理屈しか見えない。理に落ちている。
田中一村や高島野十郎は再発見された。しかし、花火の魅力は再発見の必要さえない。既にここにあって進化しつつある芸術なのだ。それがコロナで経済的に大打撃を受けている。花火ファンだった山下清も泉下で嘆いているだろう。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会理事。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。
※週刊ポスト2020年9月4日号