1882年、31才の吟子は、好寿院を優秀な成績で卒業する。だが苦難は続く。東京府(現・東京都)に医術開業試験願を提出したが却下されたのだ。埼玉県でも同様の扱いだった。「女性の医師は1人もいない」という、悪しき前例主義による門前払いだった。
このとき、吟子を支えた支援者たちがいた。卒業後の吟子が生計を立てるために家庭教師をしていた、軍医監で子爵の石黒忠悳や好寿院塾長の高階経徳だ。嫁いだ先で知り合った女流南画家の奥原晴湖もまた、吟子の背を押した1人だった。皆、荻野吟子という人を知っていたからこそ、その才能を惜しんだのである。
受験が許されたのは、そんな吟子の支援者の1人が見つけた平安時代の律令の解説書『令義解』によってだった。この書物の中に、平安時代にも女性の医師がいたことが記されており、わが国の「女医がいない」という前例が覆ったのだ。これがなければ、日本政府はやはり女医を認めなかったのだろう。1884年に願書が通り、見事合格。1885年、吟子は、日本初の女医となる。
すぐに湯島(東京)に「産婦人科荻野医院」の看板を掲げ、医院を開業する。花街が盛んだった東京には性病に悩む女性が多くいたため、吟子の医師人生の中で、最も成功したといわれている。廃娼運動に取り組んだり、衆議院の婦人傍聴禁止の撤回運動に参画したりするなど、吟子は女性の権利向上のための取り組みを強めた。キリスト教に改宗したのもこの頃だった。
その後、40才のとき、15才年下で熱心なキリスト教徒だった同志社大学生の志方之善と、周囲の猛反対を押し切って結婚。夫の「北海道を理想郷にする」という夢を信じ、病院をたたんで夫を追い、北海道に移り住んだ。道南地方の瀬棚村(現在のせたな町)で新たに病院を開業し、吟子は一家の大黒柱を担うことになる。
「瀬棚村にはもう1軒、男性の医師がやっている病院があり、やはりそちらに押し負けて、あまり繁盛しなかったようです。それでも、吟子は夫の引く馬に乗って、いつでも親切に往診に行きました。合間を見て日曜学校や婦人会をつくったり、北海道でも女性の地位向上のために努力していました」
かつて吟子の養女のトミは、作家の故・渡辺淳一さんに、《おばさん(吟子)は厳しくこわい人で、おじさん(吟子の夫)はやさしい人でした》と語っている。吟子はまだ幼いトミにほとんど遊ぶことを許さず、家事と学習を身につけるよう、厳しくしつけたという。
《おばさんはいつも夜中の1時、2時まで英語の勉強をしていて、朝は10時前に起きることはありませんでした》(トミ)
この厳しさと勤勉さが、世の中を大きく変えたことは間違いない。
※女性セブン2021年1月28日号