かくして竹下内閣が誕生し、安倍は幹事長に就任。当時、永田町では「竹下は数年やってから安倍に総理の座を譲る」との見方がもっぱらだった。
だが、リクルート事件によって1989年に竹下内閣は総辞職。安倍も要職を追われ、ほどなくして膵臓がんが判明。一時は復帰したものの、1991年、総理の椅子に座ることなく世を去った。
「想像も含めて言えば、竹下は総裁レースで盟友の安倍を裏切ったことが、ずっとトラウマになっていたのではないか。私は中曽根裁定の前に(竹下のいる)幹事長室を訪ねた際、竹下が円形脱毛症になっているのをハッキリ見てしまった。自分が総理になると思い込んでいる安倍を出し抜くことに、強いストレスを感じていたのではないか。だからこそ、『自分の次は安倍に』という意識は本物だったと思う」(同前)
孫のDAIGOに漏らすほどに、盟友に対する無念の思いは強かった。
※週刊ポスト2021年4月30日号