吉田拓郎の『旅の宿』のB面に刻まれた名曲『おやじの唄』。この歌のモデルである「おやじ」が人生をかけて成し遂げた功績を綴った書籍が今年の1月に発売された。広島修道大学教授の坂根嘉弘さんが上梓した『評伝 朝鮮総督府官吏・ 吉田正廣とその時代』(清文堂出版)で描かれた吉田正廣氏、その人である。
「1930年頃、日本が朝鮮半島を統治していたとき、正廣氏は朝鮮で大規模な農村調査を行いました。これが現地における農地制度近代化の基礎となったのです。彼は、『朝鮮農地令』を起草した超重要人物で、当時の現地新聞にもインテリ官吏として紹介されています」(坂根さん)
この偉業を成し遂げた正廣氏を「おやじ」と呼ぶのが、シンガーソングライター・吉田拓郎(75才)。1972年の大ヒットシングル『旅の宿』のB面に刻まれたのが、名曲『おやじの唄』である。
正廣氏は1895年、鹿児島県の農家に生まれ、5才のときに吉田家に養子入り。鹿児島県立鹿屋農学校を卒業後、朝鮮総督府の官吏となり、1931年に妻の朝子さんと結婚。吉田が生まれたのは終戦の翌年、一家が日本に引き揚げてきたときだった。
正廣氏は鹿児島県の嘱託職員として農政や企画調査などに従事したが、一家の暮らし向きは決して楽ではなかったという。家計を支えるため、朝子さんは栄養士の国家資格を取得。広島に仕事があったため、1955年に正廣氏を残し一家は広島に引っ越した。吉田が8才のときのことだ。
「広島に行ったのは朝子さんの仕事の都合だけでなく、次女の進学という目的もあったようです。正廣氏は農学校出身の、いわゆる“ノンキャリア組”。後に能力と実績で高等官に特進しますが、学歴の関係で悔しい思いもされたのではないかと推察します。子供たちには自分のような思いをさせたくないという一心で、長男を鹿児島のラ・サール高校に入学させるなど、非常に教育熱心でした」(坂根さん)