2014年、吉田拓郎は妻と一緒に食事を楽しんでいた
しかし、父親のそのような思いとは裏腹に、子供たちにとって正廣氏は頑固で厳しく、仕事一筋の父親だった。
「次女の宏子さんにお話を伺うと、“父は仕事のために家族を顧みなかった”という思いを強く感じました」(坂根さん)
ましてや、音楽の道に進んだ吉田と正廣氏の確執は相当なものだった。吉田は雑誌『すばる』(2010年3月号)でこう語っている。
《親父は理解なんかまるでない》《僕のデビューは“吉田家の崩壊”だというふうに、彼は晩年には思っていたみたいです》
だが、その陰で正廣氏は、吉田が最初に出した本をうれしそうに読んでいたという。坂根さんが続ける。
「私は1987年から1994年まで鹿児島大学法文学部に勤務していました。鹿児島地域史を読んでいると、『鹿児島県史』『鹿児島県議会史』など多くの公的刊本の編集・執筆者として正廣氏の名前がありましたが、どのような人物かわからず、長年気になっていました。
それから幾年か経ったある日、たまたま手に取った雑誌で、拓郎さんが自分の父親は朝鮮からの引揚者で鹿児島郷土史家として仕事をしていたと述べていた。そこでやっと拓郎さんの父親が正廣氏であることが判明したのです。インタビューを読むと、拓郎さんは正廣氏の仕事を『よくわからない』と話していますが、正廣氏は現在でも朝鮮近代史において非常に重要な研究資料を残した1人です。多くの人に彼の業績を知ってほしいですね」
吉田は父親の仕事について多くを知らなかったかもしれない。しかし、父親の姿や言動が、彼の人生に大きな影響を与えていることは間違いないだろう。
※女性セブン2021年7月15日号
まさにおしどり夫婦

