深夜、人気のないバス停のベンチを改めて眺める。手をかざせば奥行きは20cmほどだろうか、本当に腰掛ける程度のベンチである。あくまでもたれかかるだけのもので、深く座るようにはできていない。真ん中の仕切りは批判もあるがバス会社からすれば仕方のない話。
コロナ禍で仕事を辞めざるを得なくなり、やむなく路上で生活した彼女、なにも悪くない。それなのに邪魔だからと殺された。白白と夜が明けると始発のバスが来る。彼女もまた、ベンチを離れてこのバスを見送ったのだろうか。
世の中には「ホームレスの命どうでもいい」と考える人がいる。心の中は自由だ。それは内心の自由として憲法で保証されている(限定説と広義説とで解釈は異なるが本旨ではないため割愛)。しかし日本中に向かって放言する必要はないし、ましてやそれを実行して殺すことはない。冒頭と同じ内容だが繰り返す。これは人間としての大事な話だからだ。
「なにも殺さなくてもね」
先の男性の言葉、シンプルにそのとおりだ。筆者が以前『「ホームレスの命はどうでもいい」と嘯く人たちの傲慢さと哀しさについて』でも言及したが、内心の自由を否定しているわけではないのに「みんなそう思ってる」「心の中では差別してる」と命題のすり替えをする。「ホームレスの命はどうでもいい」と放言しないでくれ、「どいてほしかった」からと危害を加えないでくれ、殺さないでくれとお願いしているだけなのに。
冷笑系のソフィストを面白がるのは構わないが、ああした輩に心酔するといずれ自分の心を追い詰める。本当にやめたほうがいい。大事なことだから何度言ってもいいだろう。河川敷のホームレスを投石で殺したり、バス停で休んでいただけのホームレスを撲殺したり、ダンボールハウスに火をつけたり、ホームレスの命はどうでもいいなどと発信してはならない。理屈ではなく、ならぬことはならぬこと、法爾の道理である。
幸い、SNSを中心にこの問題をシンプルに捉え、素朴な怒りと哀しさを訴える方々や批難する声のほうが多いことに時代のアップデートを感じる。とくにZ世代やミレニアル世代の若者の、こうした問題に対する高いリテラシーは次代に向けて大切にしなければならない。けれん味なしに声を上げる若者、価値観の変容は彼らが作る。
思うのは自由だ。しかし発言や行動は運命になる。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社を経てフリーランス。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞(評論部門)受賞。『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社・共著)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。近著『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太から愛された魂の俳人』(コールサック社)。