女性が亡くなったバス停に2020年11月は花束が供えられていた(時事通信フォト)
親が悪いかどうかは置いておく。それでもお話してくれただけ、この方は死んだ女性に寄り添ってくれているということか。人によっては「もうその話は勘弁してほしい」という人もいる。確かに多くの人が忘れかけている、忘れたい事件かもしれない。しかし住むところを失うという事態は長引くコロナ禍、いつ自分の身に降り掛かってもおかしくない。
たとえば住宅ローンの貸付条件の変更希望債務者は2020年3月10日から2021年7月末実績で5万3308件に上った。これは長いコロナ禍に積み重なったもので、中小零細の貸付条件の変更希望債務者に至っては同じ期間に57万304件(!)、この大半は単なる条件変更ではなく住宅ローンを払えなくなった、商店の資金繰りが限界という債務者ばかりだ。
実のところ、政府の住居確保給付金は生活保護基準なので支給の対象外になる例が多い。もちろん住宅ローンは対象外、家を失って初めて利用できる。ましてや「できる」というだけで実際に支給されるかの条件はさらに厳しい。事情に精通しているような団体を頼らなければ、個人ではまともに相手をしてもらえないのが実情である(地域差はある)。とくに子どもの保護といった児童福祉の対象でない独身者に対しては「なんとかしろよ」という対応が現実だ。一般国民にとって、貧困は物言わぬ臓器が壊死するように進行する。徐々に追い詰められ、家を失う。総合支援資金、緊急小口資金に至ってはいまだに貸付だ。
「わかるんだけど、もうあまり騒いでほしくないって人もいるよ」
幡ヶ谷のイメージが、とのことで、それも実生活を営む方からすれば仕方のない話。
「あっちはベンチないですから」
しばらくのち、今度は渋谷行きのバスを待つ女性に話を聞く。「あっち」とは甲州街道を挟んだ反対側のバス停のこと。中野駅や阿佐ヶ谷駅に向かう路線だがベンチはない。
「それに渋谷行きは乗る人が少ないと思います」
確かに中央線の中野駅や阿佐ヶ谷駅に行く人に比べれば、この幡ヶ谷からバスで渋谷駅に行く人は少ないのかもしれない。バスだと幡ヶ谷から代々木八幡を抜けて渋谷というルートになるが、電車で幡ヶ谷駅から普通に明大前経由で渋谷に行ったほうが早いだろう。
渋谷駅行きのベンチに戻る。それにしてもこのベンチ、とても休むようにはできていない。あくまでバスが来るまでの腰掛けであり、1時間に10本前後来るため長々と座るようにはできていない。
「夜、笹塚寄りは人少ないですから」
先の高齢男性とは別の男性。笹塚寄りとは幡ヶ谷駅を起点にしての話だろう。渋谷の下町を言われる所以である。