像は家康時代のものではないとはいえ、徳川家康を描いたもので間違いなさそうだが、問題はその表情とポーズである。仏像のようなそのポーズから、奈良飛鳥の中宮寺にある菩薩半跏像を連想した人が多いのではないか。飛鳥美術の最高傑作のひとつとも喧伝される美しい仏像(国宝)である。
ただし、菩薩半跏像が右の足を左の膝の上に置き、右手を曲げて、指先でほのかに頬に触れているのに対し、「しかみ像」は左の足を右の膝の上に置き、左手を曲げて、手のひらを頬に当てている。左右が真逆なのである。清らかな気品漂う菩薩半跏像なら納得できるが、しかめっ面を崇めようというのは、少々無理がありはしまいか。
百歩譲って、武家ならでは発想のもとに後世描かれたものだとしても、他の戦国大名や江戸時代の殿様が同様の肖像画を描かせた事例を筆者は寡聞にして知らない。現存する肖像画は座像か騎馬像が基本で、座像の場合は胡坐をかき、両手は腰の位置、正面よりは右斜めから描いたものが多い。顔をしかめるどころか、変則ポーズを取ることもない。このことは、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代に限らず、日本の美術史上を通しても言えることではないか。
結局、明らかになったのは三方ケ原の戦いと「しかみ像」を関連づける根拠が何一つないというだけ。誰が、いつ、何を意図して描かせたかは謎のままで、有力な手掛かりがあそうなのは、やはり従姫の実家、紀伊徳川家(上記【1】参照)である。「しかみ像」の謎を解く鍵が、その価値に気づかれないまま眠っている古文書が、まだたくさんあるかもしれない。専門家による今後の探求に期待したい。
【プロフィール】
しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。最新刊に『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(ワニブックス)がある。