【1】(家康の9男・義直を祖とする徳川御三家のひとつ)尾張徳川家の台帳記録によれば、「しかみ像」は、(同じく御三家の)紀伊徳川家の従姫(よりひめ)が尾張徳川家9代宗睦の養子、治行と結婚した時(1780年)に持参したものとみられるが、記録には「東照宮尊彰」とあるだけで、戦いに関する記述はない。
【2】三方ケ原の戦いに関する古文献を調べても、慢心の戒めとして合戦直後の姿を描かせたとする記述は一つも見当たらない。
【3】それらしい最古の記録は、1910年に名古屋開府三百年記念会が発行した『尾張敬公』で、そこには敬公こと初代尾張藩主・徳川義直が自身と子孫への戒めのため、家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせたと記されており、このことは徳川美術館が開館した翌年の1936年1月に報道され、広く世に知られるきっかけとなった。
【4】1936年1月14日付の地方紙に、徳川美術館を創設した徳川義親らによる座談会の模様と、「子孫への戒めのために残したものだと思います」という義親のコメントが掲載された。
前掲の東京新聞記事の取材に答えた3人の専門家は、次のような見解を示している。「徳川家の権威が薄れていく中、箔を付けるため、三方ケ原の戦いと結び付けたのでは」(新説提唱者の原氏)、「武神として礼拝向けに描かれたと見なす方が合理的」(静岡県富士山世界遺産センター教授の松島仁氏)、「(描き方から)家康時代の作ではないだろう」(国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏)。
なかでも松島氏は、片手を頬に当て、片足を組んだ仏像のような「しかめ像」のポーズから、家康の神格化のため描かれたとする。また磯田氏は、「後世になって、三方ケ原の戦いで大敗した家康の苦境をイメージして描かれた絵画の可能性はゼロになったわけではない」としている。果たして真実はどうであろうか。