【書評】『「文明開化」と江戸の残像 一六一五~一九〇七』/岩下哲典・編著/ミネルヴァ書房/4180円
【評者】山内昌之(神田外語大学客員教授)
この書物は、時代とテーマを横断して幕末と明治初期を軸に日本の政治と文化をとらえる共同執筆の営みである。あまり知らない文明開化の諸相と江戸時代の遺産との関わりについて、斬新な視角から考えるのが本書の魅力だ。
たとえば、彰義隊が上野の山を占拠して黒門口(現上野公園南口付近)で、西郷隆盛率いる薩摩軍と激しく戦ったことは司馬遼太郎の小説でも描かれた。しかし、西郷が戦争前に傷病兵がたくさん出るのを予測して、横浜軍陣病院に船で患者を運ぶ方策を考えていた事実は余り知られていない。
西郷が小荷駄奉行の肝付兼両(郷左衛門)に宛てた書状を読むと、まさにロジスティクスへの配慮、出征兵士の戦陣医療をゆるがせにせず、用意周到に黒門口の激戦に臨んだことがよく分かる。
西郷は、勝海舟や山岡鉄舟と折衝する外交政治家としてだけでなく、兵站総監を指揮する軍司令官、本郷から上野に至る前線にまで進出する作戦参謀の役割など多面的な才能を発揮したことにも驚かされる。
ちなみにこの肝付兼両は、他家に出て小松帯刀となった維新指導者の兄でもある。こうした思いがけない人物のつながりからも、新たな世界が見えてくる。
別の著者は、この軍陣病院を作ったのが英国公使館医官のウィリアム・ウィリスとシッドールであり、江戸以外の各地からも沢山の患者が運び込まれた事実を紹介する。
会津藩はじめ東北諸藩との戦いで負傷した兵士も多かった。これは維新の力のなかでも、軍事というハードのなかのソフトだと著者はいうのだ。
他に、学問と知識の力をマスコミ史や洋学史からとりあげた文章や、国語辞書『言海』の編者・大槻文彦の足跡、松浦武四郎の北海道の地名普及への貢献、増上寺の芝公園への変容、華族の婚姻制度の統計的分析、熊本藩お抱え絵師・杉谷雪樵の各分析は、新たな史料と視角による文明開化論の最新研究のエキスともなっている。
※週刊ポスト2022年7月22日号