フランス版「王政復古」
まずは、ナポレオン・ボナパルトの動きだ。国王に仕える軍人でありながらフランス革命においては革命派側で戦ったナポレオンは、英雄となり革命政府の「第一執政」に就任。軍事独裁者としてナポレオン法典等を整備したが、一八〇四年に帝位に就いた。国王では無く皇帝となったのだ。西ヨーロッパにおいて民族国家(たとえばイギリスやスペイン)は王国であり、首長は国王だ。
しかし、バチカン(ローマカトリック教会)から「ローマ帝国(さまざまな民族を統合する大国)の後継者」として認められれば皇帝を名乗ることができる。その場合、戴冠式で皇帝の冠を授けるのはローマ教皇の役割である。しかし、この一八〇四年十二月二日の戴冠式は、宮廷画家ジャック=ルイ・ダヴィッドによる有名な油絵「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」に描かれているように、まずナポレオンが自ら皇帝の冠をつけ、次に皇妃ジョゼフィーヌに冠を授けるという段取りで行なわれた。
教皇ピウス7世もその場に招かれてはいたが、彼はなにもしていない。ナポレオンは皇帝の地位に就くにあたって国民投票を実施し、「フランス人民の皇帝」として即位したのだ。これから始まるナポレオン1世の統治を、フランス第一帝政と呼ぶ。しかし、それは長く続かなかった。
翌一八〇五年、ナポレオン1世はライバルのイギリス王国に攻め込もうとしたが、イギリスの名将ホレーショ・ネルソン提督にトラファルガーの海戦で敗れ撃退された。これがケチのつき始めで、ナポレオンはイギリスを封じ込めるために大陸封鎖令を出してヨーロッパ各国とイギリスの貿易ルートを遮断しようとしたが、当時世界一の品質を誇るイギリスの工業製品の需要は高くロシアは大陸封鎖令を無視した。
怒ったナポレオンは一八一二年、ロシア遠征を敢行した。これが、ロシア側ではあのプーチン大統領も誇りにしている「祖国戦争」である。ロシア軍は退却を繰り返しながら本土に敵を呼び込み、都市は自らの手で焼いて補給をさせず弱らせるという「お家芸」で対抗した。フランス軍はロシアの首都モスクワまで攻め込んだが、ロシア軍は先手を取ってモスクワを焦土(焼野原)にしており、ロシアの冬の恐ろしいまでの寒さに徹底的に痛めつけられたフランス軍は惨敗した。
日本の幕末、江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟がこの戦術を視野に入れていたことは幕末編で述べた。また、後にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーもこの「冬将軍」に撃退された。こちらのほうは「大祖国戦争」とロシア側では呼んでいる。
大敗に次ぐ大敗で力も人気も失ったナポレオンは、フランスを敵としたヨーロッパ各国の総意の下に、それに従ったフランス国内の反革命派の手によって、生まれ故郷地中海のコルシカ島の近くエルバ島の領主として降格左遷(実質的に流罪)となった。どうも日本人はこれから先のフランス史を認識している人が少ないように思うのだが、なんと、あのブルボン王家が復活したのである。
フランス革命でルイ16世が王妃マリー・アントワネットとともに断頭台(ギロチン)の露と消えたのは事実である。しかし、このブルボン王朝はこのとき復活した。このフランス版「王政復古」で、革命以来欧州各国を流浪していたルイ16世の弟でプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエが一八一四年、ルイ18世として即位した。
ちなみにルイ17世は誰だったかというと、ルイ16世の息子で16世処刑後にも革命を認めない王党派から「17世」と呼ばれていた少年がいたのである。この少年は革命派に監禁虐待され衰弱死したので正式に即位したわけではないが、王党派から見れば「ブルボン王朝は滅んでいない」ということだったから、グザヴィエは「18世」となった。しかしナポレオンの人気はまだまだ高く、彼はエルバ島を脱出しフランス軍人が次々に馳せ参じたためルイ18世はあわてて国外へ脱出し、パリに入城したナポレオンは帝政復活を宣言した。有名な「ナポレオンの百日天下」である。
ところが、ナポレオンは再びヨーロッパ連合軍に攻められワーテルローの戦い(1815年)で大敗を喫し、今度は大西洋に浮かぶ絶海の孤島の英領セント・ヘレナ島に流罪となり完全に政治生命を絶たれ、六年後の一八二一年にイギリスによる毒殺も囁かれるなか五十一歳で亡くなった。
フランスでは、その後もブルボン王朝による統治がなんと十七年も続いた。一七八九年のフランス革命に端を発する第一共和政(1792~1804)のあと、ナポレオン1世による第一帝政(1804~1814)を経て、この復古王政(1814~1830)となったわけだが、そのあともすんなりとフランス共和国が成立したわけではない。話は「相当ややこしい」のである。
(第1357回へ続く)
※週刊ポスト2022年10月21日号