西園寺公望は、一八四九年(嘉永2)に京都に生まれた。ペリーの黒船来航の四年前だ。生まれたのは公家の清華家の一つ徳大寺家である。清華家とは、摂政関白になれる五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に次ぐ家柄で、太政大臣になれる家柄だ。三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭の七家があり、公望は次男だったので二歳のときに同じ清華家の西園寺師季の養子となった。
その後すぐに師季が死亡したため、西園寺家の家督を相続した。孝明天皇が設置した学習院で学び、少年期から御所に出仕して三歳年下の祐宮(後の明治天皇)の近習となった。西園寺家は琵琶を「お家芸」とする家柄だったが、公望は「お公家さん」にしては「やんちゃ」で剣術をたしなみ、福澤諭吉の著作を愛読し海外事情にも目覚め、討幕派ではあったが開国反対では無かった。
当時の朝廷は孝明天皇を頂点に攘夷派の公家が多数を占めていたので、高級公家のなかではかなり異色の存在であったことがわかる。このあたりが討幕を進める二十四歳年上の岩倉具視に気に入られたのだろう。高い家格の出身者で明治天皇の「ご学友」でもあることから、若くして参与に抜擢された。そして、一八六八年(慶応4)一月の鳥羽・伏見の戦いの折、最初は苦戦していた薩長を見て多くの公家が「これは徳川と薩長の私戦(朝廷は関与せず)」にしたらどうかと喚き始めたとき、ただ一人「私戦と為すべきに非ず」と叫び、あの岩倉をして「小僧、能く見た」と言わしめた。
以後の戊辰戦争では、各地の鎮撫総督や大参謀を務め奮戦する。特筆すべきは、公家の身ながら最前線で戦ったということだ。本人は軍人志望だったのである。このため、明治当初は軍人希望者の留学先だったフランスに行くためにフランス語を学び始めた。高位の公卿のなかで初めて断髪し洋装して宮中に参内したのも公望だったという。戊辰戦争の功もあって文官の役職に任命されたが、これを嫌って勝手に帰郷するなど、反抗的な行為もあって公式に処罰されたこともあった。この間、京都に私塾として立命館を作った。後の立命館大学の前身である。
「立命」とは、『孟子』(盡心章句)にある「殀寿貳わず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」という句から取られた。「人間の寿命は天命によって定められている。ゆえに修養に努めてその天命を待つべきだ」という意味である。
おそらく、それほど軍人になりたいのなら望みを叶えてやれということになったのだろう。「陸軍の父」とも言える大村益次郎の推薦で、官費留学生として一八七一年(明治3)、パリに向かった。途中、アメリカ合衆国にも寄り当時のユリシーズ・グラント大統領とも会っている。グラントは南北戦争で北軍の将軍として戦った経歴の持ち主だったから、わざわざ会いに行ったのではないか。ちなみに、グラントは引退後来日し明治天皇や渋澤栄一にも会っている。
パリに到着した当時のフランスは、革命(1789年)で成立した共和政(国王のいない民主政治)から王政や帝政への「揺り戻し」が何回か繰り返された複雑怪奇とも言うべき政治情勢だった。この「フランス史」を知らないと当時の公望の心情が理解できないので、少しそのあたりの流れを説明しよう。ただし、相当にややこしい。