「昭和のパ・リーグ」を沸かせたレジェンドの急逝だった
ベタベタした友達関係にはならない
門田さんの話は、村田さんの思い出を振り返りつつも、かつてプロ野球の世界にあった選手たちの「プライド」がどのようなものだったのかといったところにも及んだ。
「あの頃はみんな頑固というか、野球を通じて貫くべき精神、道徳というものがあった。今の時代と違って、歯を食いしばれという時代でしたからね。我々は当たり前のことをやっていただけなんですけどね。
兆治のフォークを完璧にとらえたのは1回ぐらいしかなかったね。それもゲームの終盤にボールがヘナヘナとなる頃にしかバットに当たらなかったですね。当時は一緒になるのはオールスターゲームぐらい。今のようにベタベタした友達関係にはならない。黙って自分の仕事をするという雰囲気だった。フォークをどうやって投げるのか、とか聞くような選手はいなかったね。すべて商売道具。企業秘密だった。
兆治との対戦で記憶にあるのは大阪球場での逆転3ラン。仙台(ロッテの本拠地だった宮城球場)で兆治にコテンパンにされたんです。その時に兆治と捕手に聞えるように“この次の大阪ではストレートだけやで”と何度も叫んだんです。大阪球場でも“ストレートだけやで”と言ったんです。すると正直にストレート勝負をしてくれて、逆転3ランとなった。バンザイしながら“ありがとう”とダイヤモンドを回ると、兆治が悔しそうな顔をしていた。そんなこと(真っ向勝負)ができるのも、お互いに自信があるからですよ」
門田さんは「兆治はボクより2学年下なんですわ。ちょっと早いんちゃいますか」と“戦友”の死を悼んでいたが、その2か月後に門田さん本人の訃報に接するとは思ってもみないことだった。「昭和のパ・リーグ」を舞台に活躍した名選手が、またひとりこの世を去った。ご冥福をお祈りいたします。
■取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)