道徳的個人主義と共同体主義
サンデルは個人の責任を考えるうえで、まず「道徳的個人主義」を取り上げる。「われわれは自分がすることにのみ責任を負い、他人の行為にも、自分の力のおよばない出来事にも責任はない」とする考え方だ。
こうした自己責任の論理は、近年では「ネオリべ(新自由主義)」のレッテルを貼られて嫌われるが、サンデルによれば、道徳的個人主義はジョン・ロック、カントから『正義論』のジョン・ロールズに至るリベラリズムの正統な系譜だ。そこには、万人にとっての正義を語る際には、一人ひとりのちがいを捨象しなければならないという前提がある。
だがこのように「平均的個人」を想定すると、個人的な行為以外で、誰かが別の誰かよりも大きな責任を負うという主張は成立しなくなる。リベラリズムの正義はさまざまな立場から「道徳的に中立」でなければならないとされるが、だとすれば、特定の立場に偏った正義は個人の自由な選択に介入し、制限する「悪」と見なされるだろう。
サンデルはこれを「善に対する正義の優越」と呼び、現代のリベラルな政治思想の特徴だという。これを突き詰めれば、過去の共同体の加害行為に対し、無関係な個人(現在の共同体の成員)が責任を負う、などという理屈が成立するわけはない。リベラルは、国の責任は問うても、個人は免責するのだ。
だがサンデルは、こうしたマジョリティにとって都合のいい理屈は浅薄だという。なぜなら、アリストテレスのいうように、人間は徹底的に社会的な動物で、共同体に所属しなければ生きていけないのだから。
わたしたちは、好むと好まざるとにかかわらず、共同体の歴史や物語のなかで成長するほかはない。ひとはみな「物語る存在」で、共同体の歴史に対して一人ひとりが(相応の)責任を負っているのだ。
これがサンデルのような「共同体主義者(コミュニタリアン)」が語る美しい物語だが、その立場は右派・保守派の掲げるナショナリズムとよく似ている。
ナショナリストは共同体(国)の歴史のなかで光の当たる側しか見ないのに対し、コミュニタリアンは善と悪の両方を引き受けようとするが、その線引きはあいまいだ。日本でもリベラルなコミュニタリアンはたくさんいるが(というより、ベタなムラ社会である日本では、ほとんどの「リベラル」は共同体主義者だ)、ときにその言動が右翼と区別がつかないのはこれが理由だろう。
「リベラル化」というのは、一人ひとりが「自分らしく」生きたいと思うようになることで、それによって必然的に共同体は解体していく。いまの若者は「お国のために死ぬ」ことなど想像もできないだろうが、80年前の若者はみなそう思っていた。共同体は美しいだけのものではない。
そう考えれば、サンデルが理想とするような「共同体」が復活することは、よくも悪くも、もはやないのではなかろうか。
(橘玲・著『世界はなぜ地獄になるのか』より一部抜粋して再構成)
【プロフィール】
橘玲(たちばな・あきら)/1959年生まれ。作家。国際金融小説『マネーロンダリング』『タックスヘイヴン』などのほか、『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『幸福の「資本」論』など金融・人生設計に関する著作も多数。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。リベラル化する社会をテーマとした評論に『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』がある。最新刊は『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館新書)。