世代別日本代表で主将を務めた。トロフィーを持つのが松田(時事通信フォト)
高校は全国優勝4度を誇る強豪・伏見工業に進学し、即戦力として1年から試合に出場。3年の時はキャプテンを務め、高校日本代表にも選ばれた。当時伏見工業の監督を務めていた高崎利明氏が振り返る。
「チーム事情でFB(フルバック)をしていましたが、いずれは日本代表のSOに成長すると確信していたので、練習試合ではちょくちょくSOをやらせていました。本格的にSOをやるようになったのは最終学年になってからです。
フィジカルやスキルだけでなく、当時から前を見てゲームをしっかり作れるプレーヤーだった。ただ、実力がずば抜けた選手だったこともあり、試合中にカッとなって独りよがりなプレーをすることも。私は“冷静になれ”“スペースを見つけて攻めろ”と話していました」
花園ではベスト8に終わったが、己を高めるために選んだ名門・帝京大学に進むと、松田はさらなる飛躍を遂げる。
人たらし
入学当時、帝京大は2009年から全国大学選手権4連覇中の「常勝軍団」だった。そのなかで松田は1年の時から司令塔を任された。日本代表キャップを持つ尾崎晟也(28)が語る。
「中学を除いて、小学1年の頃からずっと同じチームでラグビーをしてきた幼馴染みです。父親同士が同じチームでラグビーをしていたこともあり、家族ぐるみの仲。年齢が1つ上の力也君は僕の“お兄ちゃん”でした。
ラグビーの試合で負けた時、感情むき出しで泣いて悔しがる彼を見て、“本当にラグビーが好きで、負けたくないんだな”と幼いながらに感じたのを覚えています」
走攻守完璧な松田だったが、学生時代はランの印象が強かったと尾崎。
「1点差で負けた花園の試合(常翔学園戦)では“松田劇場”といわれるくらい、ランで相手チームを切り裂いていました。当時、同じポジションで力也君に敵う人はいなかったと思う」