「当事者が『笑ってほしい』」は理由になるのか?
もともと「無滑舌芸人」を自称し、自らの滑舌をお笑いのネタにしてきたインたけ。『水ダウ』ではくり返し、インたけ本人のインタビューを放送した。「このしゃべり方で名前を覚えられたりするので、しゃべり方とネタで笑ってほしい」。そう言いながら芸人としてステップアップしたい、テレビに出たい、と願望を語り続けた。
インたけは「(吃音があっても)自分の好きな職業を選べる」と吃音者団体で講演した経験も披露し、「テレビに出たことで僕を見て勇気づけられることも絶対にある」と語る。多くの人たちが目にするテレビには「いっぱい出たい」と語る。
インたけの場合は吃音という障害を抱える当事者である本人が(吃音という“個性”も含めて)「笑ってほしい」と願うケースだ。では当事者本人が望めばテレビで何を笑っても許されるのだろうか。
筆者は許されない場合もあると考える。吃音という障害そのものを笑うケースだ。障害にもいろいろな種類がある。見た目でわかる障害もあればそうでもない障害もある。もしも特定の障害そのものを笑うならば、障害をもつ人々全体への「差別」や「偏見」につながってしまう。やはり(絶対に)避けるべきだろう。
実際にTBSに抗議をした日本吃音協会では番組を見て子どもが傷ついたという苦情が親から寄せられて「どもるところを面白おかしく見せている」と判断して抗議したという。障害を抱える芸人本人がよかれと考えた「お笑い」であっても、それで傷がつく人がいるなら多くの人が見るマス・メディアでは出すべきではないのかもしれない。
人を傷つけず、コンプレックスを笑いに変える「ネタ」とは?
他方で当事者の芸が「障害そのものを笑う」ことになるのかどうかは厳密には区別が難しい。だからといって、これはアウトだろう、あれもアウトだろうと、テレビの側が過剰に自主規制に走るならば「少しでも抗議が来そうなものは放送しない」という“事なかれ主義”に陥る。
外からの抗議やBPOなどの動向に過剰なほどに反応するコンプライアンス至上主義が蔓延するテレビの現状はすでに末期的だが、今回の『水ダウ』はそこを乗り越える希望の光が少し見える。
インたけ自身が言うように「僕を見て勇気づけられる」というお笑いの可能性だ。ただし現状の彼の芸人としての能力では残念なことにまだ遠く及ばない。R-1グランプリで1回戦落ちし、「芸人としてネタが弱い」「ポテンシャルを上げるべき」「吃音とか関係なくネタのクオリティ上げた方がいい」など先輩芸人らも厳しく評価する。フットボールアワーの後藤輝基が「しゃべり方がどうだろうが関係なく、クオリティがあって受けていたら我々にはそれが正解」というのがお笑いの世界なのだ。