伊藤匠叡王の叡王奪取は他の棋士たちにも大きな刺激に(時事通信フォト)
全冠制覇は辛すぎる
全冠独占が崩れ、棋界が動き出す中、7月末に藤井への挑戦権を懸けた王座戦挑戦者決定戦が行われ、前年度の王座戦で藤井の八冠制覇を許した31歳の永瀬が53歳の羽生との大一番を制した。
「永瀬さんは前年度のリターンマッチになります。それとは別に王位戦では渡辺(明)さんが挑戦者になっている。渡辺さん、永瀬さんはトップ棋士の中で最も藤井さんに痛い目に遭ってきた2人です。八冠が崩れて将棋界が動いたのは確かですが、タイトルを獲ったのが21歳の伊藤さんなので、30代の2人にしてみれば手強い後輩がもう1人増えたということ。
羽生さんが七冠の頃は私が当事者だったのでわかるのですが、さすがに全冠制覇されるのは年長の棋士として辛すぎるわけです。まして1人ならその人だけを見ていればいいんですけど、年少2人に現時点で抜かれたわけですから、自分たちの時代が終わり、これからは20代前半の世代が動かしていくことにもなりかねない。相当な危機感があると思います」
1980年代、天才の名をほしいままにしていた谷川は年下の羽生に次々とタイトルを奪われ、30代半ばで無冠となった。そこから葛藤の末に復活を遂げた。そんな経験を持つだけに藤井世代より年長の棋士たちに視線を注ぐ。そして年長者の中でも驚くべきは、50代に突入して将棋連盟会長も務める羽生が挑戦者決定戦まで勝ち進んだという事実だった。
「終盤力も若い頃と変わらないですし、いろいろな戦法に柔軟に的確に対応できている。何より驚くのは会長職を務めながらということです。今年は将棋連盟の100周年で東西の会館の建設もあるので、休みがないくらい忙しいはずです。研究に充てたい時間もあるでしょう。勝負ごとなので、先のことはわかりませんが、羽生さんはタイトル99期、来年以降、何か大きなことが起こるのではないか、そういう期待は皆さん持っていると思います」
藤井とその世代の時代になるのか。それとも年長者が意地を見せるのか。そして衰えを知らない羽生は再びタイトル戦の舞台に立つのか。棋界の話題は尽きそうにない。
【プロフィール】
谷川浩司(たにがわ・こうじ)/1962年生まれ、兵庫県神戸市生まれ。5歳で将棋を覚える。1976年、史上2人目の中学生棋士として四段デビュー。1983年に史上最年少の21歳2か月で名人位を獲得し、1997年に十七世名人の資格を得る。著書に『藤井聡太はどこまで強くなるのか 名人への道』『還暦から始まる』(ともに講談社)などがある。
鈴木忠平(すずき・ただひら)/1977年、千葉県生まれ。ノンフィクションライター。日刊スポーツ新聞社入社後、2016年に独立し、現在フリーとして活動している。『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』など著書多数。最新著書は、『いまだ成らず 羽生善治の譜』(いずれも文藝春秋)。
※週刊ポスト2024年8月16・23日号