懸命な救助活動が行われている(時事通信フォト)
そう、千羽鶴を被災地に送ってもありがた迷惑だという認識は、ここ数年でそれなりに広まりました。ウクライナに千羽鶴を送ろうとした団体に多くの批判が集まったのも、記憶に新しいところです。ただ、そのときも「いいことをしているのに!」「善意の贈り物にケチを付けるなんて!」といった擁護の声もたくさんありました。
今回の大雨でもそうですが、大きな災害が起きるたびに、SNSなどには「古着を送ってこられるのがいかに迷惑か」「古着を送ることがいかに失礼な行為か」という声が、さんざん上がっています。もう着なくなったものを被災地に送るのは、自分では善行のつもりでも、被災地をゴミ捨て場扱いしていることに他なりません。まず使われませんが、もし使うにしても仕分けの手間が膨大にかかります。はたして、それは誰がやるのか。
「自分はいいことをしている」という満足感と優越感に酔っている人(というより、実際には何もしていないけどそういう酔い方をしたいだけの人)には、「それを送っても迷惑だ」という声は届きません。それどころか、自分の想像力のなさや善意の独りよがりっぷりを認めたくないもんだから、ムキになって反発してきます。
「善意でやっている」と思っているときほど危険
今回の保存水の件でとくに目立ったのが、「もったいないことをするのは許せない」というわかりやすい正義感を発揮したい人の多さと意固地さ。そういう方は、現地の職員やボランティアが余計な手間や時間を費やす「より重視すべきもったいなさ」には無頓着です。自分の信じている「正義」を疑うのは、とても勇気がいることなのでしょう。
ただ、大量の「クソリプ」が送られているとはいえ、投稿から1日半の時点で2.5万の「いいね」が付くなど、賛同や共感を示している人のほうがはるかにたくさんいます。意図を理解できていない人からのイチャモンに対して、投稿主に代わって冷静に諭してくれている人もちらほら。世の中もSNSも、捨てたもんじゃありません。
反発してくる人も、「もったいない」という正義を振りかざす人も、本人は善意に基づいているつもりなのが、またややこしいところ。人は「自分は善意でやっているんだ」と思っているときほど、独善的になったり反対意見に耳を貸さなかったりなど、危険な落とし穴にはまるリスクが高まるようです。「善意なんだから文句を言うな」と主張するのは、居酒屋やスーパーで「こっちは客だぞ」と威張るのと同じ構図かもしれません。
言うまでもなく、被災地への支援は大切です。ただ、今はどの地域で何が必要なのか、物がいいのかお金がいいのかボランティアに行くのがいいのか、しっかり検討して、せっかくの善意を有効に活用したいところ。そして、被災した方への敬意を忘れないのは大前提です。こんなコラムを書いている自分は、少しですが寄付をさせていただきました。
被災地のみなさんに一日も早く平穏な毎日が戻ることをお祈りしております。そして、被災地に自己満足を送り付けて迷惑をかける人が少しでも減ることもお祈りしております。