決勝の相手は智弁和歌山。奇しくも当時のキャプテンは中谷仁で、現在、母校の監督をしている点でも両者は共通する
1997年の夏、平安(現・龍谷大平安)のエース左腕・川口知哉が甲子園球場で投じた球数は820球にも及ぶ。
1回戦の県立岐阜商業(8対4)から高知商業(5対0)、浜松工業(静岡、3対2)、徳島商業(5対1)、そして準決勝の前橋工業(群馬、3対0)と、準決勝までに対戦した学校がすべて公立の商業・工業高校だったのは、私立が圧倒的優位な立場にある現代とは隔世の感がある。いずれの試合も接戦で、点差が開いた試合がない。それゆえ、当時の平安を率いていた原田英彦監督は、川口を休養させたくてもさせられない状況だった。川口が当時を振り返る。
「高知商業には藤川兄弟(順一、球児)がいましたし、浜松工業は前の試合で僕らがセンバツで敗れた報徳学園(兵庫)に勝って3回戦に進出してきていた。相手はすべて公立校でしたが、本当に強豪ばかりでした。監督からは『どこかの試合で休ませたい』と言われていましたが、僕自身は他の選手にマウンドを譲る気はなかったですね。最終的に準々決勝からは4連投となりましたが、僕が先発することに対する批判なんてまったくありませんでした」
今年3月、教え子に対する体罰を理由に辞任した原田に代わって監督に就任した川口は、自身が監督であったとしても、エース・川口に4連投を託しただろうと話すのだ。
川口は1997年のドラフト会議で4球団の競合となり、オリックスに入団する。しかし、イップスにも似た症状に苦しみ、実働6年で1勝に終わった。高校最後の夏の球数と、プロ入り後の不調を関連付けてしまうのは邪推だろうか。
「あの夏の代償はまったくなかった。それは断言できます。プロで活躍できなかったのは、自分に実力がなかっただけです」
取材・文/柳川悠二
※週刊ポスト2025年8月29日・9月5日号