おふたりのつきあいは古い。『苦海浄土』のそもそもの題は『海と空のあいだに』といい、一九六〇年代後半に渡辺さんが自力で出していた「熊本風土記」という地元誌に連載された。そして水俣病の患者たちとともに闘争に立ちあがった彼女から「熊本市に患者の支援組織を」と頼まれてつくったのが「水俣病を告発する会」。その心情を語るとするならば「義によって助太刀いたす」と、渡辺さんは語っている。
裁判を挟まずチッソ側と直接交渉しようとの自主交渉路線をうちだした新認定患者一八家族を支援して、チッソ水俣工場での座り込み、東京本社の占拠、大阪におけるチッソ株主総会での抗議行動、そして厚生省の占拠を敢行し、厚生省事件のさいには渡辺さんは逮捕され三日間拘留された。
「京二さん、あのときは牢名主のごとなったとでしょう」
「牢名主なんて、あなた、留置所にはいってみたら、先客は詐欺師とスリのふたりですよ。なんで捕まったのかと訊かれましてね、水俣病問題だと話したら、それは立派なことだと尊敬されましてね」
「京二さんを返せって、デモ隊が警察署まで行ったでしょう」
「その声が聞こえてきたらスリが四つん這いになりましてね、自分の背中に乗っかって外を見てくださいって言ってくれましたよ」
窓はとても高いところにある。それで物見台のかわりになろうと言いだしたのだ。
いま「群像」(三月号)に『石飛山祭』という石牟礼さんの小説が載っている。
「昭和三八年に私が書いた小説を京二さんが見つけてくれたんですよ」
どうしたんですか、それは?
「宝の山ですよ」と、渡辺さんは近くの本棚の下の引き戸を見る。
「ここには石牟礼さんのむかしの日記がノートにたくさんあるんだ。毎日書かれたものじゃないけれど、かなりの分量でしっかりと書かれている。これから僕が整理して、少しずつ発表していこうと思っているんです」
同人雑誌(「道標」)をつづけているのである。渡辺さんはそれに自分でも作品を書きながら、石牟礼さんの年譜を編んでもいる。編集者としてはじまった石牟礼さんとの関係は、いまなお続行中なのである。
おふたりの仕事を読んでいると、「袖振りあうも多生の縁」という言葉が思い浮かぶ。この世でも、あの世でも、生まれてくる以前のどこかの世界でもめぐりあってきたであろう「生類」の一存在として、どんな酷薄な宿命をも胸をひらいて迎えいれ、泣き笑いして生きていった人びとの命の光源を見つめ、描きあげてきたおふたりの仕事に敬服する。
撮影■小原孝博
※週刊ポスト2011年2月25日号