みうらじゅん氏は、1958年京都生まれ。イラストレーター、エッセイスト、ミュージシャン、ラジオDJなど幅広いジャンルで活躍。1997年「マイ ブーム」で流行語大賞受賞。仏教への造詣が深く、『見仏記』『マイ仏教』などの著書もある同氏が、お墓について考える。
* * *
10年前、突然母親が私にいった。
「じゅん、ウチのお墓買うたで」
聞けば、京都の実家近くの有名寺院に墓を買ったとのこと。だから、私はその墓に入ることが半ば決まっている。
既に人生の大半を東京で過ごしている私にとって、自分の入る墓が京都に決められたってことに複雑な思いを抱きましたよ。そもそも墓って必要なんですかね?
2006年、『千の風になって』って歌がヒットした時、お墓業界は危機感を持ったらしいです。なにしろ、「私はお墓になんかいないんだから、お墓の前で泣かないで」っていうんです。この曲に感動した人が、「そうだよね。お墓なんていらないよね」とお墓の存在を否定するんじゃないかと思ったらしいです。
ところが、実際は、さっぱりそういうことにはなってない。城卓矢が『骨まで愛して』をヒットさせたのが昭和41年(1966)。作詞は川内康範先生! これって、死んだ後も「オレの骨を、愛してくれ!!」って要望でしょ? 深読みすれば、お墓に入ってもちゃんと愛してねということですよね。
でも、「私はお墓にはいない」ってことは、どこにいるってことになるんだろう? とりあえず墓に入りたがる人が多いということは、やはり日本人は、墓に故人の魂があると思っているのだろうか?
前に調べた神道の葬儀、神葬祭では、「霊璽」という位牌のようなものに魂が宿っているという考え方で、お墓よりも「霊璽」の方が大事ということだった。
それだったら、お墓いらないよねって思うけど、神葬祭で葬儀をする人たちもやっぱりお墓は建てていた。
もしかすると、死んだ人が入りたがるというよりは、遺族が、墓を建てることで、そこに故人の魂があると思い込みたいのかもしれない。なにかメモリアルな心の拠り所を、亡骸である骨を埋めた墓に求めているのかもしれない。
※週刊ポスト2012年11月30日号