私は、シャルトルーズ・ヴェールというアルコール度数が55度あるリキュールが好きなのだが、それも『BARレモン・ハート』の魅惑的な解説に影響されたところが大きい。この酒について、1998年に発行された『BARレモン・ハート酒大事典』はこう紹介している。
〈『シャルトルーズ・ヴェール』の誕生は、1605年、フランスの陸軍元帥がこの霊酒の処方をパリ郊外のカルトジオ教団に寄進したことに始まる。そしてこの処方をもとに1764年、グルノーブルのシャルトルーズ寺院で完成した。現在でも蒸留は白い僧衣をまとった3人の会士によってのみ行われている。処方箋に記されている130種類の薬草は、まず厳選されたアルコールに浸され、蒸留される。そこで出来たスピリッツに、蒸留されたハチミツとゴールデンシロップを加えてリキュールができ、樽熟成される。『シャルトルーズ・ヴェールV・E・P』は12年熟成させた高級酒。ほかにアルコール度数40度の『シャルトルーズ・ジョーヌ』などもある〉
長々と引用してしまった。興味のない人には退屈なだけであることは分かっている。「いちいちうんちく垂れながら飲むお酒ってめんどくさくない?」と顔をしかめる人がいることも知っている。うんちくは、ある意味、雑学で、雑学は些末でどうでもいい話だ。興味のない人にむりやり垂れてはいけない。
だから、『BARレモン・ハート』の中でも、ついうんちく披露を始めてしまうマスターに、常連だけれど酒音痴の松ちゃんが、「また、悪い癖が始まった!」としばしばツッコミを入れる。ツッコまれたマスターは顔を赤らめてうんちくを早めに切り上げるか、内容によっては「この話だけは聞いていただかなければなりません」と語気を強めて、壮大なうんちくを続ける。そういう場合のマスターは、世界史のダイナミズムやそれに翻弄される人間についての語り部になり、酒好きでなくても惹かれるところがある。
翻弄される人間といえば、『BARレモン・ハート』に登場する客たちは、たいてい人生の何かの転機にある。仕事、恋愛、家族、病気、老い、友人や家族の死……など、けっこう重い話を正面からとりあげている。
世の中にあるすべての酒を知り尽くしているマスターの知識と閃きが、客の人生のピンチを救うなど、現実にはありえない展開でそのほとんどがハッピーエンドに導かれていくのだが、ちと強引な起承転結の回も「気持ちがすごくあったかい!!」とキャッチコピーされたハートウォーミングなドラマとして、まあ、いいかとなる。非現実的、非日常的だからいいんだよね、と思わせる力がこの作品にはあり、それはバーという場の本質だったりする。だからバーマンたちはこのマンガを支持するのだ。
浮いた話も難しい話も、まあ、ひとつここで聞かせてくださいな。他のお客さんを不快にさせなければ、ご自身のペースで、何を話しても結構です。そこがバーという場所なのです。といった基本理念がこのマンガの中には貫かれている。
現実の店によっていろいろだけど、私はバーを、敷居の低いメンタルクリニックだと思っている。薬のかわりに処方されるのがベストチョイスのお酒。カウンセリングのかわりに自分の気持ちを聞いてくれるのがマスター、あるいは心優しい常連たち。バーの理想はそうであり、『BARレモン・ハート』はそんな世界を描いている。
9月末刊行のコミックは30巻目。大ヒット作『ダメおやじ』を描き終えた3年後に、『BARレモン・ハート』の連載を始めた作者の古谷三敏は79歳。いつまでも店じまいしないでくれよ、と思いながらこの名作を読んでいる。