ただし、それ未満の子供たちは、厳しい格差社会に蹴り落とされる。いや、ここで格差社会化を憂うのは少し違うかもしれない。私がリアルにイメージするのは、地方の中核人材のさらなる劣化だ。国立大が私立大と変わらないほど金のかかる教育機関となることで、まっさきに打撃を被るのは、地方の役所や金融機関などに勤めるような優秀層ではないか。
その層で力のある者は、学費がさして変わらない東京の「いい大学」で苦学して、同じく東京の成長企業で一旗あげようとするかもしれない。が、それも現実的には難しくて、大学進学を諦め、地元の高卒採用へ流れるほうが多くなる可能性もある。地元にロクな求人がなければ、大都市部で仕事を探すのかもしれない。
時代がそうなれば、高卒でも「地頭のいい人材」を採る企業が出てくるだろう。できる人間は、世をすねて腐らなければ、そのうち自分を評価する誰かと出会えるものだ。
だが、その出会いの場所はおそらく、非常に合理的な競争原理の働く職場なのである。そこで働く者は目前の仕事に日々、すべてを捧げている。ビジネスマンは皆そうだろうというレベルではなく、常に現状の120%の力を出して成果をモノにする社員だけが生き残るような場所なのだ。
そこで頑張って生き抜くことを、ムキ出しの競争原理にさらされているフリーランスの私が否定するはずもない。しかし、いずれはミもフタもない切った張ったの世界で生きることになるにせよ、高卒の18歳がいきなりそこへ投げ込まれるのはどうかと思うのである。
損得勘定を横に置いて、興味の向くまま何の役に立つかもわからない学問と接することで抽象思考を覚え、多様な価値観を持つ学友や教授たちとの交わりを通して世界が広いことを知って行く過程はバカにならない。地方の国立大の少なからずが小粒化し、沈滞ムードになっているとはいえ、そうした知的空間はまだ存在している。そこを飛び越えて、一気に競争社会に入る若者が増えてしまうと、地方経済はもちろんのこと、国全体にとっても中長期的に大きな損失につながるのではないか。
国がどうなるといった大きな話はともかくとしても、金がないから学べない、というのは寂しい。まったく1億総活躍社会などではない。劣化した日本列島が地方からボロボロと崩れていく絵しか描けない。
貧すれば人々はしがみつく。大学に関しては、大学校の入試倍率の上昇が、この国の貧乏の深刻化を表すんじゃないかと密かに思っている。学士が取れて給料も出る、防衛大学校、防衛医科大学校、海上保安大学校、気象大学校あたりの偏差値が急上昇し始めたらヤバい。優秀な若者たちが日本の防衛や防災に身を捧げること自体は頼もしいが、「他に道がなかったから」だとしたら、それはまったく喜べない。