2位の土光敏夫(1896~1988)は石川島播磨重工業(現・IHI)の社長、東芝の社長・会長、経団連会長などを歴任。行財政改革を審議するため1981年に発足した第二次臨時行政調査会(土光臨調)では、会長として辣腕を振るい、「ミスター合理化」「行革の鬼」などと評された。
私生活では清貧を貫き、主菜がメザシの夕食風景がテレビで流された。それから親しみと尊敬をこめて「メザシの土光さん」と呼ばれた。
「強面なところばかりが強調されますが、土光氏は優れたコミュニケーション能力の持ち主でした。東芝の再建を託された時には『社員はこれまでの3倍働け、役員は10倍働け、僕はそれ以上働く』と語った。
工場視察の際には必ず労組支部を訪ね、一升瓶をぶら下げて労組本部事務所に現われたというエピソードもある。社長室のドアがいつも開け放たれていたというのも有名な話です」(経済ジャーナリスト・片山修氏)
本田技研工業の創業者、本田宗一郎(1906~1991)は3位。自動車修理工場での丁稚奉公から、自動車部品メーカーを起こし、戦後、「世界一への夢」を掲げてオートバイ作りを始めた。1962年には四輪車事業に参入、世界的な成功を収めた。一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授・楠木建氏はこう評価する。
「本田氏は日本の『モノ作り』のシンボルのような人。そういう人は没頭するあまりに自己満足なモノを作ってしまいがちですが、彼はエンジニアとしてのみならず、商売人としてのマインドも素晴らしかった。
モノ作りの力が免罪符のように使われる中で、『お客さんが欲しいものを作らないとしょうがない』という彼の開かれた商業的な心を、いまこそ改めて評価すべきだと思います」
※週刊ポスト2016年5月27日号