どうしてそんなことになる? たとえゲストがポーズをするのが番組のお定まりだったとしても、何だかあまりの場違い感。
おそらく選手自身は、一人でも多くの人に競技や勝利について関心を持ってもらいたい、お世話になった人々に感謝を伝えたいという一心でいるため、テレビ局からのベタな求めにもできる限り応じようとするでしょう。その気持ち、わからなくなくはない。
だからこそ百歩譲って、選手たちをバラエティ番組のりで迎えるのは、例えば帰国後にするとか、現地にいる間はきちんと競技について語ってもらうとか、一線をきっちりと引いて欲しい。マスコミ側自らが。
この番組に限りません。テレビのリオ五輪報道を観察していると、ある傾向性に気づきました。世界トップを極めようという輝かしきアスリートたちを、一般庶民レベルまで引き下ろそうとする圧力。そんな力が日本のテレビ局の中に逆巻いている。
キャスターの小倉智昭氏あたりが「~どうなの?」などと五輪選手に妙なタメ口で呼びかけたり、やたらに家族の話をひきあいに出したがるのも、みなその現れでしょう。レジェンドをお茶の間レベルへと「引きずり落としたい圧力」は、クセモノです。
なぜなら、自分たちがスポーツを勉強し知識を蓄え深い質問をぶつけたり、選手たちの高みを少しでも理解するといった方向の努力を、放棄しているのですから。
これはスポーツに特有の現象なのでしょうか? ちょっと考えてみましょう。
たとえば、ノーベル賞を受賞し世界トップと評価された学者や作家を相手に番組がインタビューしたとして、「はい、スッキリポーズお願いします」とか頼むでしょうか? 「世界を極めた人」の中において、あからさまな優劣がつけられていませんか? スポーツ選手は、どこか一段下に見られていませんか?
(ちなみに、同番組に出演したトップ政治家がスッキリポーズをやっていましたがそれは当然のこと。お茶の間の関心はポピュリストの獲得目標ですから)
2020年の東京五輪までに準備すべきこと。それは、スタジアム建設等といったハコモノ公共工事以前に、スポーツ文化育成やスポーツジャーナリズムの育成、取材側の知識の蓄積、競技についての勉強といったソフト力なのかもしれません。
少なくとも、今回の「スッキリポーズ」要請は、スポーツ文化がいまだ十分に根付いていない日本の姿についてはっきりと自覚させてくれる、印象的なシーンでした。