「母は泣き崩れましたが、父は人前で涙を見せなかった。ただ、心も体もボロボロだったはずです」
酒が入るといつも舞子さんを思い出し、こう嘆いていた。
「おれが代わってやりたかった。おれがこの年まで生きて、なんで舞子は…」
再生への転機は、摩弓さんの結婚と出産だった。初孫を溺愛していたという三原さんは15年前、孫の小学校入学を機に、地元・豊川小学校に通学する児童の「見守り活動」を始めた。
「“あの悲劇を繰り返しちゃいかん”って。朝7時に地域の児童8~9人と一緒に学校まで引率するんです。片道30分を毎日。通学路に枯れ葉が積もっていれば、危ないからと軽トラックに積んで処分して。あのトンネル歩道が危ない、横断歩道には信号機をつけたほうがいいって、気づいたところは市にも進言していたんですが、聞き入れられなかった」(摩弓さん)
1月30日朝、三原さんはいつもどおり児童を引率して学校へと歩いていた。
「私も出勤する時に国道に出るんですが、あの日は珍しく渋滞していたんです。なんだろうなと思ったら友人から着信があって。嫌な予感がしました。電話口で『おっちゃんが!』って…」(摩弓さん)
気が動転しながら現場に駆けつけると、三原さんが道路脇に倒れていた。とっさにかばった子供は軽傷で済んだが、児童らは衝撃のあまり泣きじゃくっていたという。
「救急車が来るまでの間、意識はありました。激痛だったろうに、“子供は大丈夫か”って心配していたんです。救急隊に名前を聞かれた際も、“三原です”と答えることはできたのですが…」(摩弓さん)
搬送先で意識不明に。左半身の骨が全て粉砕されており、CTを撮るたびに、脳内の血の塊が拡大していったという。
母親と孫も病院に合流したが、家族の祈りは届かず、翌朝亡くなった。
「子供の未来のために、全力で生きた人でした」
摩弓さんはそう話した。2月2日、市内の集会所で営まれた三原さんの葬儀には、友人や学校関係者、県警幹部ら300人が参列。棺を乗せた車は豊川小学校の前を通り、40人の児童が手を合わせて見送った。
※女性セブン2017年2月23日号